第8話 想い出

   <小説>   


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 佐和子には手術前にもう一度会いに行こうと思っていたが、それにはそう時を要さなかった。今日行こうか?明日行こうか、ならべく早いほうがいいそんな風に思っていた。 その理由は美咲に会いに行ったあとに見た夢だった。いつもと同じ闇の夢、それなのにいるはずの者がいなかった。蛍が姿を現さなかったのだ。それは亨を不安へと押しやった。何かが起きているのではないか、と。
 その予感は嬉しくもなく的中した。社会の授業中だった。亨は歴史の話など耳に入ることなく、心配事に脳裏を支配されていた。

 ―― 蛍は大丈夫なのだろうか?佐和子に何かあったのだろうか?

 そんなことばかり考えていた。そしてひとつの記憶を手繰り寄せる。忘れられない宝物のような想い出の瞬間。亨は真っ赤な夕日で浮き出された教室を思い出していた。まるで燃える炎のような赤い空。どこか淋しく、どこか不安を誘う。幻想的で、魅力的。
  想い出に浸っていたその時だった。亨の目の前が急に真っ暗になったのだ。

「何!?」

 声にならない声をあげた。呆然と彼は闇の夢の中にいた。どうして、と思ったが。微かに授業中だという実感はあった。

 ―― 起きないと。

 そう体を呼び戻そうとしたが、それが出来なかった。

「亨!!」

 少女の声が響いた。

 ―― 蛍?

 遠くから話し掛けているかのように遠くで響く、悲痛な叫び。

「亨、助けて!!お願い!!亨」

 はっと闇が消えた。体には電流のように何かが走った。緊張と緊迫感。おそれ、そして不安。波のように押し寄せてくる。心臓が早打つ。冷気にも似た寒さが体にまとわりついてきた。手の先が冷たい。絶えずノートをとっている手がぴたりと止まっていた。

 ―― これは自分の不安だ。

 不意に見た教師の顔はまったくわからない。視界に誰かがいるとしか分からなかった。クラスの友人達もただそこにいるとしか思えなかった。動きも止まって見える。

「亨どうした?真っ青だぞ」

 隣で直人が小さく呟くがそれすら耳には言ってこなかった。

 ―― 何かが……。

 がたっと急に亨は立ち上がった。それに驚いたのは教師よりクラスメイトだった。真っ青な顔で立ち上がった彼の瞳に何も映っていなかった。何事かと、視線は窓際の席に立つ亨一点に集中した。
 黒板に字を書いていた先生は驚きのあまりチョークを折った。それが床にころころと転がっている。

「松宮どうした?」
「すみません……先生。早退します」

 そういったが早いか何も言わずに教室を飛び出した。一瞬教室は静まり返り何が起きたか分からなかった。そして時と共に騒然となった。

「松宮!!」

 先生は叫んだがその声はもう亨には届かなかった。彼の耳に届いたのはひとつだけ。蛍の助けを求める叫びだけだった。走った!なりふり構わずひたすらに走った。それほど遠くは無い病院の道のりがとてつもなく遠く感じた。荒くなる息づかい、苦しくなる胸。早くなる鼓動。汗が流れ出る。それでも疲れなど感じなかった。勢いと気持ちだけで走った。そして、勢いのまま佐和子の病室へと駆け込んだ。こぼれ出る苦しみの息。
 見回した病室には誰もいなかった。母親もいない。亨は視界が真っ暗になるように立ちくらみがした。それでも首を勢いよく振り、近くを通りかかった看護士に尋ねる。

「藤沢さんは?」

 汗だくで、息を切らした少年に話し掛けられて驚いたようだったが、知らないと口にした。

「ありがとうございます」

丁寧に御礼を言ったが不安はさらに亨を駆り立てた。母親は家に戻っていると教えてくれたのがさらに不安を大きくした。頭に響いた蛍の声、それが離れない。
 闇の中の不安は自分のものではなかった。しかし、同じくらいの不安の闇が自分のかなに存在していた。

 ―― どこへ?

何処からともなく声がした。

「屋上?」

 言ったと同時に階段を駆け上った。亨が屋上にたどり着いた時、目に飛び込んできたのはひとりの少女だった。紛れも無く佐和子の後姿、 パジャマ姿のまま風に長い髪を揺らしている。

「藤沢さん!!」

 その声に佐和子は振り返る。

「何考えているんだ!!」
「どうして……」

 佐和子は驚いた顔をしたがそこから動かなかった。いや、動けなかったのかもしれない。

「藤沢さん、早くこっちへ」

 亨は駆け寄って手を差し出した。病院の屋上は柵で覆われている。その向こう側に少しの間があって、その下は何も無い。佐和子が立っていたのは柵の外だった。溝のような隙間に立っている。一歩外へ足を踏み出せば、まっ逆さまに落ちるだろう。そうなれば命は確実になくなる。手術の成功以前にここで死ぬ。側まで近づいてきた亨に首を振った。

「嫌、来ないで。お願い放っておいて。ここで死なせて」
「何を言っているんだ。手術をしたら普通に……」
「成功なんてしないわ。50%なんて嘘よ。20%だって無いのよ。助からないの、死ぬのは決まっているのよ。もう不安の中にいるのも、恐怖の中で苦しむのも嫌。もう何もいらない、このままここで死にたいの」
「藤沢!!」

 佐和子の瞳には涙が浮かんでいた。亨に向かって柵につかまるように立っている。体は外へ行きたがっていた。いつその手を離さないかと心配で顔と手を交互に視線を向けた。

 ―― 落ち着くんだ。

 自分に言い聞かせた。蛍が救って欲しかったのはこうなる事を予想していたからだ。美咲が希望の光が無いといっていた事も納得した。佐和子は生きることを諦めていたのだ。もう助からないと諦めていたのだ。だから闇、立ちこめる不安は生きられない自分への哀れな気持ち。広がる恐怖は死に対する恐怖。
 何を言ったら良い?どういったら救える?諦めてしまった人生をどうやったら呼び戻せる?考えをまとめるだけの時間などない。これにも明確な答えなど無いに等しかった。勉強は役に立たない。こんな時勉強ができたって何にもなりはしないじゃないか。

「なぜ諦めてしまうんだ?」
「もう助からないからよ」
「なぜそのほんのわずかな可能性に賭けてみない?ここで飛び降りれば確実に死ねるだろう。でも、手術すれば直るかもしれないんだ。なぜ挑戦しないで諦めようとするんだ」
「自分の体のことは自分が一番良く知っているわ。助かりなどしない、今ここで死んでも同じよ」
「同じなら……同じ死ぬんなら手術台で死ねばいい。ここで死にたいっているのは逃げるだけだ。まだ戦えよ。今までも戦ってきたんじゃないか。あと少し!!諦めるなよ。諦めたらだめだ!!たった1%でも可能性があるならそれに賭けろよ。100%死ぬようなことするなよ。」
「放っておいて!!」
「放って置けるわけ無いだろ!! せっかく生まれてきた命だろ。生まれてきたことが幸せなんだろ。それをここで捨てるのか?ここで捨ててしまっていいのか?他に幸せはないのか?こんなことして何を望む?何を手に入れられる?何も無い、闇に落ちるだけじゃないか?生きろよ。生きるんだ!!藤沢が言ったんだ、生まれてきたことが幸せだって、生きていることが幸せなんだと。それなのにこんな結果僕は許さない」

 夕日が佐和子の瞳に甦った。決して夕日が出ているわけではない。彼女の記憶の中の夕日。亨の記憶の中の夕日。佐和子は俯いた。そして何も言わなかった。

 夕日が窓から差し込んでいる。真っ赤に染まった教室に佐和子はひとり立っていた。白いカーテンは夕日に染まり、風に揺れていた。2つに編まれたみつあみがかすかに動く。足音に佐和子は振り返った。そこにいたのは委員会を終えた亨だった。背から逆行に美しく淵とられた薄幸の少女。ほっそりとした姿に目を奪われて、息を飲んだ。

「藤沢さん、どうしたの?」
「学校にこれて嬉しくって」
「そうか、なんで休んでいたの?」
「私は人より少しからだが弱いみたいなの。松宮君は委員会?」
「そうなんだ、今はちょっといそがしくってね」

 そう言って微笑んだ。

「松宮君って頭良いのですってね」
「そんなこと無いよ」
「でも、熱心にに勉強しているって」
「して損は無いからね」
「何か目標でもあるの?」
「うーん、まあ。教師になりたいんだ」
「そうなの」

 亨は自分の席に腰掛けた。

「藤沢さんは何か夢が?」
「私?」

 佐和子はしばらく考えてこういった。

「大人になることかな」
「え?」

 亨は不思議そうな顔をした。今の亨ならその意味が分かるだろうが、当時の亨にはそんなことはわからなかった。佐和子は笑っただけで何も言わなかった。

「ねえ、幸せって何だと思う?」
「幸せ?そうだな……夢や希望が叶う事……かな?あんまり考えた事無いなそんなこと」
「幸せが何か考えないなんて、それは松宮君が幸せだからよ」
「じゃあ藤沢さんは?」
「生まれてきたことが幸せ。今ここに生きていることが幸せと思うわ。人は忘れてしまっているのよ。命があるということがどんなに幸せな事かと。命があるから、幸せも感じる事ができるのだわ」

 亨はまじまじと佐和子の顔を見た。

「私何か変なこといった?」
「嫌、なんだか大人だなって。僕も忘れていたな、命の大切さ」

 佐和子が見せた淡い表情に心が微かに震えた。熱い想いがこみ上げる。その想いの意味をまだ知らない。しかし、このとき一瞬見せた佐和子の表情が忘れられなかったはかなげで、優しく悲しみに満ちた笑顔、こんな笑顔を初めて見た。亨の心を激しく揺さぶった。

「そう言った君がここで死ぬの?幸せを捨て去るの?夢はまだ叶ってないよ。夢はかなえるためにあるんだ。かなえるために努力するんだ。皆努力しているんだよ。大人になりたい言ったのは君の願いだろ。それを諦めるなよ。諦めたらそこで終わってしまうじゃないか。僕はそんなの嫌だ。藤沢がここで死ぬのは嫌だよ 」

 亨は必死に訴えかけた。諦めるな、生きて欲しいと。佐和子の柵にかけている手が震えていた。もう涙は止まっている。唇を噛み締めて、亨だけを見つめていた。

「こっちへ。諦めるのはまだ早い」

 亨は再び手を差し伸べた。佐和子は胸元で手を握りし越しためらいがちにその手を取った。亨はもっと佐和子に近づいて彼女を抱きしめた。そしてそのまま、体を抱き上げた。体は想像していたよりさらに軽かった。抱きしめた腕が佐和子の体の細さを物語る。

「わ!」

 そのまま亨を下にして倒れこんだ。コンクリートが日に照らされて熱くなっていた。空は青く太陽が目に染みた。体に感じる重さが命の重みのようにのしかかる。佐和子を抱きしめる手が震えていた。

「松宮君……あの?」

 亨の白いシャツに顔をうずめて真っ赤になっていた、佐和子は起き上がろうと試みるがその腕にはさらに力が込められてそれを引き離す事は出来なかった。

 ―― 暖かい。

 安心できる広い胸にそったと頭を乗せた。亨の目には流れ行く白い雲が映っていた。助ける事が出来た事への安心感からか時を経つのを忘れていく。体を占領していた闇がスーッと放たれた。不思議な感覚が体に残る。瞳から一粒、熱いものが零れ落ちた。それはコンクリートに落ち、跡形も無く消えてしまった。

「よかった」
「松宮君?」
「わあ、ごめん」

 体を慌てて起こした。戸惑うように真っ赤になって佐和子の体を離した。気まずそうに目を泳がせる。

「体は何ともない?」
「ええ……大丈夫。私、死にたかったわけじゃないの。希望が無かった。嘘じゃなく真実で言って欲しかったの。諦めるなって。父も母も大丈夫助かるわって言う。助かって欲しいと思いながらも覚悟を決めている。低い確率をかくして。生きていたいと思うわ。私、死にたくない。でも……」
「分かってる、誰かに言って欲しかったんだろ?君は助かる、絶対、僕はそう信じている」
「松宮君、ありがとう」

 佐和子は力なく微笑んだ。あの日の笑顔とだぶるようなはかない笑顔。それでもその表情にははかすかな希望が映っていた。

「でも、なんでここに?」
「え!?いやそれは……」

 まさか夢の番人に呼ばれたといったら佐和子は信じるだろうか?そんなことを考えたが、言わなかった。

「呼ばれたんだ。」
「え?」
「藤沢の声が聞えたんだ。助けて……てね」
「本当?」
「本当だ」
「もう、会えないかと思っていた」
「僕に?」
「あ……」

 佐和子は青白い顔を真っ赤にしていた。そして泳がせていた視線を亨に向けてまた俯いた。目の前にいる佐和子がとても可愛く思えた。熱いものがこみ上げてくる。妙に居心地が悪い。

「私、松宮君が好きなの」

 そう言って合わせていた視線を慌ててそらした。

「…………」
「私、もう戻るね。お母さんが帰ってくるから」

 慌てて佐和子は立ち上がった。少し早足で立ち去ろうとした佐和子の背中をじっと見て我に返った。

「待って!」

 飛び起きるかのように駆け寄って。勢いに任せて佐和子を後ろから抱きしめた。佐和子は小さな悲鳴をあげた。亨は自分でもまさかこんな行動をとるとは思っていなかっただろう。相変わらず抱きしめる手が震えていた。微かに薬の匂いがする。首に回された大きな腕に佐和子はそっと触れた。鼓動の速さはきっと佐和子にも伝わっているだろう。今にも口から心臓が飛び出しそうだった。

「藤沢。君は死んだりしない絶対に成功する。だから諦めるな。不安なら俺がそれを取り除く。恐いのならずっと手を握っていてあげる。君はひとりじゃない。俺も君が好きだよ。だから生きて欲しい、俺のためにも」

 亨が始めて『俺』といった。それが佐和子には聞きなれない音だったが、嬉しかった。彼が誰に大しても『僕』ということを知っていたからだ。耳元で囁く甘い響きに心が震えた。そ

「自分の心に気が付かなかった。誰かを好きになるんなんて、今まで無かったから。あの夕焼けの日から俺にとって藤沢は特別な人だったんだ。君が好きだよ、この世に生きる誰よりも」

 佐和子の瞳には輝く光の粒が音も無く零れ落ちた。それは亨の腕に落ちて消えていった。

「ありがとう。私、生きたい。あなたの為にも。あなたのそばで生きていた。それが夢。願いなの。たった1%の可能性でも、助かる事が出来ないといわれても、あなたが生きて欲しいと願う限り私も信じる。私の運命を」

 強い日差しが2人を照りつける。夏が終わりに近づいても立ち込める吸気は生温く熱かった。時々そよぐ風には秋の匂いを感じた。

 2人は見詰め合って抱きしめあった。自分の腕にすっぽりと埋まってしまう小さな体。細い髪が風になびいた。少しほてった小さな命をこの腕に抱きしめていた。生まれてきたことが幸せ、生きていられることが幸せなのだと心に強く感じた。そして、出逢った事が幸せなんだ。もし、共に生きていくことが出来たとしたら、それ以上の幸せはないだろう。 亨は、この夏の終わり出来事を永遠に忘れる事はなかった。


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