第2話 夢

   <小説>   


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 闇の夢は、毎日のように続いた。
 朝、目を覚ますたびに不安に震える自分に気づく。
 特に恐ろしいものが登場するわけではないのに、体には汗をかいていた。
 考える。
 不安に揺れる夢を見るほど、自分の中に心配事があるのか。普段の生活が夢に影響するということをどこかで耳にしたからだ。けれど、そんな悩みなど、いくら考えても思い当たらなかった。
 十六年生きてきて、こんなに不安に思ったことはない。受験の時ですらこんなに不安にはならなかった。
 それでも、あの夢は自分の存在意識が見せているとしか思えない。
 そうでなければ、こんなにも毎日同じ夢を見続けることがあるはずがない。
 闇の森を歩き回っているような孤独な夢。
 他人事の夢が、映像となって流れているような感覚。
 それでも、闇は心の中に流れ込み、侵食し始める。
 まるで自分の心が、闇に犯されているようなとても嫌な感じだ。
 真っ暗な闇の中をいつも彷徨い、最後には必ずあの少女に出会う。
 白い服の幼い少女。優しい笑顔で現れ、悲しい表情で訴えかける。

「私を見つけて……そして助けて」

 悲痛な叫び。
 いったい誰を見つけて、誰を助けると言うのか?
 あんな少女など知らない。記憶の片隅にさえいない。どうしていいのかわからない。

 ―― いったい何が?

 自分に何か異変が起ころうとしているのだろうか。
 初めは夢だから気にもとめていなかったが、一週間、二週間とそれが続くとそうも言っていられなかった。
 いったいあの夢はなんなのかと、あの少女は何ものなのかと、時間があると考えてしまう。
 いつも頭に浮かんでくる。
 闇を彷徨い歩く自分の姿と、突然現れる不思議な少女。
 色んな事が頭を駆け巡ったが、簡単に解決できるような素敵な答えは浮かんでこなかった。
 溜息がこぼれた。

「松宮!!」

 体が反応したその瞬間、頭に激しい痛みを感じた。

「俺の授業でぼーっとしているとは、いい度胸だな」

 目の前に怒りをあらわにした人が立っている。痛みの原因はこれかと、真っ黒な出席簿を漠然と見つつ、その男を見上げた。
 少し遅れてから、はっとしたように息を飲む。
 冷たい視線が突き刺さる。
 「やばい」と、とっさに思った。
 ちらりと黒板に目をやると、たくさんの数式が列をなしている。
 窓からは生温い風が入ってきていた。
 少しの間、自分がどこにいて、今何をしているかを考ええ、すぐに察すことが出来た。
 そして、自分はまた非現実的な夢の世界を彷徨っていたのだと察しがついた。
 今は学校にいる。そして、数学の時間。ひっそりとそう言い聞かせた。

「俺の授業を聞くより、空を見ているほうが為になるというのなら出て行っていいぞ」
「いいえ、そんな事はありません。すみません」

 素直に謝るが、それを簡単に許す教師なら苦労はしなかった。
 目の前の教師は、学校中から嫌われているような男だ。
 しかも、かなりの嫌味好き。
 それでもいい授業をするのならまだ救いはあるが、最悪なほど面白くない授業なのだから救いようは無い。
 神経質そうな顔にのった細い黒縁目金から、冷ややかな視線が覗いている。
 他の生徒より嫌われている自覚のある彼は、のんびりと「まずいな」と心の中でつぶやく。
 いつも目の敵にされているため、今回の出来事はいいネタを提供してしまったようだ。ここぞとばかりにつかかってきた。
 怒りに任せて何をするか分からない。あまりことを大きくすると厄介だった。
 松宮と呼ばれる彼は、かなりの秀才で、出来すぎというほど人の信頼も厚い。
 数学が特に得意で、何かとやり込められているのが教師であるこの男には面白くないようだ。仕返しができる恰好なネタに冷笑を浮かべている。
 どうしようかと考えていた。
 謝ったところで解決などしない。
 かといって、夢に悩まされているだなんて口にも出せなかった。
 何も言わずに静かに俯むく。

「前に出て、問題を解きなさい。話を聞いていたのなら解けるような簡単な問題だ」

彼はチラッと黒板を見たが、また俯いた。

「分かりません」

ふん、と勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「学年トップの松宮が解けないだなって。しっかり授業を聞いていなからだ!!」

 語尾は強かったが、声は勝ち誇った自己満足が漂っていた。

「廊下に立っていなさい。君くらいの優等生が立っているなんてめったに無い事だからな」

 そう嬉しそうに言った瞬間、幸いな事に授業終了のチャイムが鳴り響いた。その音に悔しそうに眉を動かしたのを見逃さなかった。

「廊下に立っていましょうか?」

 しれっと見上げた教師に、丁寧に言う。その表情は、無表情だ。
 それにあからさまにむっとした顔をした教師は、そそくさと教卓へと戻っていった。
 教科書をまとめると、帰り際に振り返り、思い出したかのように言い捨てた。

「松宮、放課後までに3ページテキストを解いて持って来い」

 そう言うか早いか出て行った。
 教室には緊迫した雰囲気が漂っていたが、いっきにその糸が解けた。
はあ〜と言う溜息混じりの声が響いた。
 そして、不思議そうな顔で皆が松宮の方を見ていた。
 その視線に優しく微笑んだ。
 軽く髪をかきあげて、椅子に深く座り込んだ。
 多少緊張していた体がいっきに緩む。ふーっと、息を履いた顔は穏やかだった。

 何の変哲も無い教室。真っ直ぐに並べられた机と椅子。窓からは青い空が望み背の高い木が並んでいた。
 覗き込むと茶色のグランドが見通せる。
 反対側にも窓がはめ込まれていて、廊下を通っていく人が見ることが出来た。
 ここは、1年4組の教室。
 1学年は4階に位置して、ちょうど真ん中あたりにある。クラスは全部で40人。その内1人が長い間学校を休んでいた。
 比較的まとまりのあるクラスで、それはクラス委員である彼の力量とも言えた。

 松宮 亨
 学年トップクラスの頭を持ち、クラスでも人気があり、人当たりのよう優しい少年である。
 爽やかににっこりと笑い、ほんわか雰囲気を漂わせていたが、かなりのしっかり者でクラス委員としての仕事もそつなくこなしていた。
 頼りになる人というのが代名詞だが、えら振りもせず、嫌な顔もせず、まとめ役に徹していた。
 争う事を嫌い、誠実で、真面目。
 歳からしてみると出来すぎとも言える落ち着きを持っていた。
 そんな優等生の亨が、最近ちょっと変だとクラス中が感じていた。
 成績優秀、品性良好、先生に対する態度も、授業中の態度もはっきり言って真面目。
 そんな彼が、心ここにあらずで、授業中もぼんやりしている事が多かったからだ。
 勉強で分からないとこがあると言うと快く教えてくれるのだが、問題を解いてる途中に声をかけても聞こえていないのか反応しない事もしばしばだった。
 物思いに耽っているその表情は虚ろだったが、哀愁漂わせている雰囲気が色っぽくもあった。
 亨は、大人しそうな綺麗な顔立ちしている。
 背も高く細身。さらには頭が良い。性格は申し分ない。女の子にもてないはずが無かった。
 誰に対しても分け隔てなく、気配りが行き届いていて、面倒見が良い。3人兄弟の長男で、幼い弟の面倒を見ているのも亨だった。そのためか、大人っぽい雰囲気が漂い、他の男の子達とは少し違った空気を持っている。
 女の子たちも、おおぴらに好きだと告げるというよりは、密かに憧れている男の子だった。
 人気があるのは女の子たちの間だけではなく、男の子達も出来すぎているにもかかわらず決して嫌味の無い彼に惹かれていた。誰からも慕われる、まれな好青年という印象が強い。

「どうしたんだよ、亨。ここんとこ変だぞ」
「何が?」

 数学のテキストを広げてノートに答えを書きつつ、返事をする。
 話し掛けられて言葉は耳に届いていたが、亨の頭は数式で一杯で、上の空だった。

「最近ぼーっとしすぎだ」

 耳から入った言葉に反射的に答えているだけなのが分かっている亨の友人は、隣の席から身を乗り出して顔を覗き込んだ。

「そう?」

 問題を解き終えた、綺麗な文字を続言っていたシャープを置いて少年を見た。
 なれた手つきで、ずれ落ちた授業中しかかけないめがねを直す。
 めがねをかけた亨は、より隙のない優等生に見える。
 教室中は昼休みなため、騒がしかった。
 昼食を取るもの、楽しそうに話をするもの、宿題を慌てて写すもの色々いた。
 それを横目に、亨は言われたとうりに数学のテキストに取り掛かっていた。

「珍しいじゃん、こんな事。お前ならあれくらいの問題でも解けるだろ。きっちり予習しているようなやつだぜ」
「ああ、答えは分かってたよ」

 にっこりと微笑んだ。

「あ?」
「わざと答えなかったんだ。答えたらもっとたくさんの課題が出ていただろうからね。しかも、僕だけじゃなくクラス中に」
「……確かに、やりそうだなあいつなら……だからって……」
「別にたいした事じゃないよ。テキストくらい。あ……でも廊下に立つのはいやだな」
「何をのんきに。それより、具合でも悪いのか?」
「何で?」
「最近本当にぼーっとしているぞ、お前。話し掛けても聞いてないし」

 しばらく下を向いて考え込んむ。溜息をひとつ落とすと、目の前の友人をまっすぐ見る。

「体の調子は悪くない……けど、変な夢を見るんだ」
「夢?」
「真っ暗な闇の夢」
「何、深刻に話しているんだよ、亨、直人」

 数人の男たちが話しに入ってきた。彼らは、仲の良いクラスメイトだ。
 直人との付き合いが一番長いが、中学も一緒だった彼らとは気心の知れた中で、亨とつるんでいるだけあってみんな割と優等生風だった。直人が一番、亨とつるんでいることに疑問を持たれることが多いほど、派手目な容姿をしていた。
 少しためらったが、彼らの夢の話をすることにそれほど抵抗は感じなかった。
 連日見る闇の夢について、彼らの意見も聞きたかった亨は、できるだけわかりやすく話した。
 皆、亨の夢に興味を持ったが、不安に押しつぶされるような夢がどんなものか理解できなかったようだ。
 夢の深刻さより、出てくる少女に興味が集まった。

「女の子って、どんな?見た事ある子?」

 これは、直人が聞いた。

「いいや、まったく知らない子」
「可愛いのか?」

 意味ありげな笑みを浮かべて、真辺という背の高いガッチリした男が聞いた。

「?可愛い子だよ。ふわふわとして、目も大きくって」
「好きな女の夢とかじゃないのか?」

 これも真辺が。

「そんなんじゃないよ」

 まったく慌てもぜすに笑顔で交わした。

「だろうな」

 ッチっと舌うちをして眉をひそめた。まったくと言っていいほど浮いた話の無い亨を、からかえるチャンスが脆くも崩れて残念がったせいだった。
 せっかく女の影かと思ったのに、そんな顔をした。
 友人たちは色んな質問をしてきた。
 それで何か分かるかとも思ったが、結局のところ何にも分からない。
 みんな夢の話だろっと楽しむだけ楽しんで終わってしまった。
 亨はもちろん気を悪くすることもなく、楽しい話として会話を続けていた。
 自分でもあの夢を上手く語ることは出来なかったし、友人たちが答えを出してくれるとは初めから思っていなかった。
 そんなに簡単にこの夢の意味がわかるのなら、今までこんなに悩んだりしなかっただろう。
 聞いてもらっただけでも、少し気分が軽くなった。
 けれど、人の心情にさとい金井だけは、深刻そうに眉を顰める。

「悩み事とでもあるんじゃないのか?」

 自然と出た言葉だろう。
 亨は、そんな金井に首を振ってみせた。
 悩み事ひとつ浮かんでこない。
 こんな風に言うと恨まれそうだが、亨は人生で大きな挫折も、自分で解決できないような悩みも生まれたことがない。
 順風万端というより、穏やかで波風のない毎日だ。
 これと言って、悩むべき出来事もない。
 日々の悩みは、受け持っている家事で夕飯を何にするかくらいだろう。
 もうちょっと深刻な悩みは、弟たちについて考えるくらいだ。
 しかし、毎日闇の夢を見るような大きな悩みなど全く思い当らなかった。
 あの夢の感覚は普通ではない。
 不安と恐怖が入り混じる冷たい感覚。
 張り詰めた重たい空気。
 何に対する不安か?
 それは、自分とはまったく切り離された空間のようにしか思えなかった。
 自分の闇ではなく、他の人間の……助けてというあの少女の闇であるのは間違いないように思う。
 亨の中で、あの夢は何だろう、あの少女は誰だろうという疑問より、どうして自分があの夢を見るのだろう、どうして助けを求められているのだろうという疑問のほうが大きくなっていた。
 亨は、考えた。
 しかし、その答えは数学のように簡単に解けなかった。
 解けなければ、解けないほど考えてしまう。
 まるで闇の夢に誘われる時と同じように、思考の中へと導かれる。
 亨は、あの夢が何を意味するのか、ただ知りたかった。
 そして、救ってほしいという思いが本当ならば、助けたいと思っていた。
 どうすることもできない現実に、十六年の人生で一番悩んでいることにまったく気づかなかった。


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