第四章  父の残した言葉

 第二話 別れと出会い

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 薄っすらと朝の気配がした。
 月華は、幸成が死んでから初めて人の腕の中で目覚めた。
 優しく抱きしめる腕は温かい。
 静に目を開けると、ふたつの目がじっと自分を見ている事に気がついた。視線が合うと恥かしさがこみ上げて、顔を神楽の胸にうずめた。
 単が顔にあたり、見え隠れする肌にまた頬が熱くなる。
 思わず起き上がろうとするが、神楽は腕の力を緩めず、背中を抱いた。

「神楽?」
「もう少しこのままで……」

 一夜の出来事に嘘はない。
 そこにあったものは真実の愛と、互いの願いだった。
 夢のような時は過ぎ、夜明けと共に二人の瞳から喜びが消えていった。悲しみが深まっていく。
 神楽は、この手に月華を抱いたら、二度と離したくないと思うことを知っていた。たった一夜の夢ということも分かっていた。それでも抱きたかった。
 ほんの少しの時でも、月華のすべてが欲しかった。月華の記憶に自らを刻み込むように、小さな傷跡を残しておきたかった。
 その願いがよけいに自分たちを苦しめると知りながら、顔を背けることが出来なかった。 
 月華も、一度神楽の腕に抱かれれば天命から逃れ、自由を欲す自分を止められない事を知っていた。だから、会わなかった。会ってしまえば心が解き放れてしまうから。
 けれど、罪を犯してでも神楽に抱いてもらいたかった。ほんの一瞬でも、心のままに生きたかった。初めて生まれた愛を、何よりも大切にしたかった。その罪に一生縛られて生きることになっても、逃れたいとは思わなかった。
 互いに求め合った。そして、抱き合う事で心も体もひとつになる。手に入れたのは一瞬の幸せ、儚く脆い夢の時。失う事は絶望。運命を呪ってしまうほど悲しいこと。でも、心を見ないふりをして、何もなかったように生きるより、罪を犯してでも小さな幸せを求めたかった。

「今まで生きてきた中で、これから生きる人生の中でも、この一夜が私にとって一番大切な、一番……幸せな時です。神楽、私を愛してくれて有難う」
「月華……」

 震える声、潤む瞳、抑えきれずに苦しい胸の奥深くに、ためらう唇が言おうとしている言葉を神楽は知っていた。一番聞きたくない、耳を塞いでしまいたい言葉。
 月華の頬を音もなく零れ落ちる涙を見た。

「さようなら、神楽……」

 かすれた声が小さく響いた。
 分かっている、他に道はない。曲がり道など初めからなかった。あったのは立ち止まるだけの場所。月を失った一夜だけの隙間。
 逃れたいと望む月華が、一番この運命から逃れられない事を知っていた。
 固く結んだ結び目がほどけないように、運命に繋がれた自分は解き放たれる事はない。
 それは、神楽にも伝わっていた。
 まるで心を共有しているかのように、語らずとも理解しあえる。流れる空気だけで、何を想い、何を求めているのか、そして何を選ぶのか。

「月華、必ず幸せになって。この手で幸せにできない事は一番苦しく辛い事。でも、これから先の人生を月華が幸せに暮らす事ができたのなら、私も幸せを感じるだろう」
「神楽」

 強く抱きしめる腕の中で、神楽の囁く声を聞いた。

「愛する者の幸せこそが、幸せなのだということを忘れないで欲しい」

 しばらくの時、見つめ合った。そして、どちらからともなく唇を寄せ合った。
 月華は崩れ落ちるように顔を伏せ、声を立てずに泣き出した。
 その時すでに、神楽の姿は部屋から消えていた。
 段々薄れていく神楽の温もりの中で泣き続けた。
 いつものように、月華を起こしに来た若菜は、すべてを知っていた。

「姫様……」
「ごめんなさい」
「いいのです。私も一緒に罪を背負うと決めたのです。誰にも、他言は致しません」
「……ごめんなさい」
「さあ、支度をしましょう。迎えが来るまでに、いつもの姫様に戻っていなくては」
「……ありがとう、若菜」

 屋敷に迎えが来たのは日が暮れる少し前だった。薄暗い空に月が姿を表し、屋敷から見る最後の月を横目に、女車に乗った。
 初めて目にする平安京を、こっそりと覗き見る。かたかた揺れる女車は、京中を通り過ぎていった。

「あれが月姫様か」
「どのようなお姿なのか、一度見てみたいものだ」
「きっと美しい方に違いない」
「きっと優しい方に違いない」
「あのお方がいられる以上、平安京は平和の中にある」
「秋雅親王の時代も安泰だ」

 人々の囁きは月華にも届いた。覗いていた窓を降ろし、小さく体を縮めた。
 両手で耳を塞ぐ。
 自分は特別な人間ではない、と罪を背負った普通の少女だと叫んでしまいたかった。
 神楽は、月華の車が見えなくなるまでずっと笛を吹いていた。
 それはさよならの音色だった。別れを惜しむ音ではなく、送り出す音だった。思い出される昨夜の罪の時間、忘れる事が出来ればどれほど楽だろうか。
 何度も車を飛び出そうかと思った。その自分を押し留めたのは、幸成の言葉と、神楽の願いだった。

「私も、神楽が幸せなら幸せ……」

 天はなぜ、自分の上に天命を降らせたのだろうか。問い続けた疑問は分からないままだった。
 今はその答えより、天命を受け入れる事だけを考えた。
 神楽に出会う前の、天命に従っていた自分に戻るように言い聞かせた。

「神楽……ありがとう」

 耳に届かなくなった笛の音色が、神楽との別離を表していた。一粒の涙が頬をつたって美しい着物に消えていく。これが、神楽を想って流す最後の涙と、月華は心に誓った。



 内裏の一角に秋雅の宮はあった。
 普段なら、人であふれているはずだが、儀式のため通路をわたる月華を見るものはいない。
 真っ直ぐ長い廊下は静寂に満ちていて、歩く音しか聞こえない。
 惟高の後についておとなしく歩きながら、もう逃げ出すことはできないなと漠然と考えていた。

「姫様?」

 ひとつの部屋に通されたまま、黙っている月華の顔を覗き込むと若菜は心配そうに声をかけてきた。
 運ばれてきた、お茶にも菓子にも手を出さず、おとなしくしている姿が痛々しい。
 部屋には、安里と惟高もいて、二人は儀式の打ち合わせをしているようだ。

「大丈夫よ、若菜」
「けれど……」
「もう、心は決めたわ」

 そう言った月華の姿は、凛とした強さを感じた。それだどれだけの涙の後に作られた姿なのか知っている若菜は、見ているだけで苦しくなった。
 若菜だけでなく、安里も、月華に起きたことを知っている。戸惑ってあわてる若菜を制したのは安里だった。
 ほかの男を招き入れるという罪を犯しても、二人は止めなかった。
 必死に隠している胸の奥にしまいこんだ月華の想いがどれほど強く、深いか気づいていた二人には止めることはできなかった。
 気づかないふりをして、ともに罪を背負うことを覚悟した。
 月華より、ずっと揺らいでいる若菜を、安里はひとにらみする。
 その目には、「あなたがそんなことでどうするの」と非難の色が見て取れた。
 察しのいい、惟高にでも気づかれたら大ごとだ。

「そ、それにしても皇太子様ってどんな方なのでしょうね」

 話題を変えようと、小声で問いかけた。月華が、それにこたえる前に、今度は惟高に睨まれた。静かにしていろという無言の訴えに若菜は口をつぐんだ。多少なりも重たい雰囲気をどうにかしたかった若菜にとっては、安里にも惟高にも睨まれ、いたたまれない。
 けれど、かすかに月華が笑顔になったので、ほっとした。

「姫様、おいしそうな菓子をいただいたらどうですか?」

 自分の立ち位置は、明るく姫の世話をすること、惟高の睨みに屈したりしないわと、さらにうるさく声を上げた。眉をしかめた惟高が目の端に移ったが、もう気にしなかった。



 空に闇が来て、月が色濃く輝き始めた。
 少し騒がしくなった廊下に気付いた。
 若菜に目配せをする。
 几帳の後ろで握っている扇に力が入った。
 足音が部屋の前で止まり、人が中に入ってくるけはいがした。

「失礼しますよ、姫」

 初めて聴く秋雅の声は、落ち着いた男の声だった。低く甘く、そして優しい。

「若菜、下がっていいわ」

 小声で囁くと、頷いた若菜は部屋の外へ出て行った。秋雅も共に連れて来たもの達を下げたのか、この部屋には二人しかいなかった。

「月姫?」
「初めまして、秋雅様」

 秋雅は几帳の奥にするりと入り込み、目の前に現れた。
 月華は下を向いた目線を上げ、じっと目の前にいる男を見つめた。
 背も高く、しっかりとした体つき、立派な衣に身を包んでいる。
 ゆっくりと、近づくとともに顔がはっきりと見える。
 神楽は美しい男と思ったが、秋雅も綺麗な顔だった。
 神楽の一見鋭く見える切れ長の目とは違い、温和そうな目をしていた。しかし、その瞳の奥にある鋭い光を見逃さなかった。

「驚いた。噂には聞いていたが、まさかこんなに美しいとは……」

 見開いた目は輝いていた。満面の笑みは嬉しそうに言葉を漏らす。

「有難うございます」
「緊張しているのか?」
「え?」
「文のやり取りをしていた姫は、こんなに大人しい姫だったかと思ってね」

 意地悪そうな笑みを浮かべていた。
 思わず笑みがこぼれた。

「文とは違って、何を話していいかわからず、緊張しております」
「いつものとおりで構わない。姫は姫のままがいい」
「惟高には怒られてばかりです。そのようでは内裏でやっていけません……と」
「いつものままの姫で構わない」
「惟高にまた、嫌味を言われてしまいます」
「あははは……惟高なら言いそうだ。心配はいらない。私が姫の力になろう。姫をお守りするのが私の役目……もちろん夫が一番ですが」

 真っ直ぐと見つめる秋雅の目。真っ直ぐと届く言葉。ちくちくと痛みを感じ始めた。
 ちらつくのは、罪の意識。

「姫、どうかしたのですか?」

 俯いた月華の顔を覗き込んだ秋雅は目を見開いた。
 自分でもどうしたのか分からなかった。止めようと思っても止まらない。次から次へと涙が零れ落ちた。

「す……すみません」
「何かあったのですか?」

 首を横に振る。
 いろいろな言葉が頭を駆け巡り、言葉を失った。
 忘れようとすれば、忘れようとしただけ神楽が頭に浮かんで離れない。
 耳元で囁いてくれた言葉。
 抱きしめてくれた腕。
 触れた唇の温もり。
 自分とは違う、微かな香りさえ今になって急に思い出される。
 秋雅の「私が守る」という言葉に、どうしてそう言ってくれるのが神楽ではないのかとさえ思った。
 自分は、とても浅はかな人間だと思い知った。
 罪を抱えたまま生きていけると思ったが、そんな簡単なものではなかった。
 じっと見ていただけだった秋雅が月華の涙に手を伸ばす。
 その顔から笑みは消えていた。
 探るように、静に近づくと、唇で涙に触れた。
 月華は、びくりと体を震わせた。

「いやっ!」

 小さな声は悲鳴となって秋雅を跳ね除けた。
 意外そうな表情を浮かべ、しばらく沈黙を決め込むと鼻から笑みをもらした。
 それとは逆に、月華は自分のもらした言葉に青くなる。

「あ……」

 悲痛な顔色に、混乱が襲い掛かる。

「姫は正直な方だ」
「…………」
「私が気付かないとでも思っているのですか。きっと私以外のものなら分からなかったでしょう」
「あの……」
「何年、姫と文のやりとりをしていると思っているのです。明らかに宴を開いたあの日から姫の文は違っていた」

 思い当たる節がたくさんあった。
 何度も書き直したにもかかわらず、まともな文にはらなかった。
 いつも通りにと思えば思うほど、心のないただの文章になっていったのを覚えている。

「些細な事と思っていたが、何も変わらない生活を送る姫の些細な事は大きな出来事。心の迷い、不安そしていつになく硬くありきたりな文。私は不思議に思っていた。原因はなんですか?」

 責める言葉には聞こえなかった。
 顔を見るのは初めてだったが、文と変わらない印象だ。
 秋雅とは何てすばらしい人だろう、人物の大きさに驚きを隠せない。
 しかし、言えるはずもない。
 立場も忘れ、恋に溺れ、別の誰かを愛したなどと言えるはずがない。
 神楽を愛し、愛され、体を許したなど言ってはならない。
 真っ直ぐ秋雅を見る。
 小さく首を振ると、瞳を閉じた。

「何も、少し不安になっているだけです」
「あなたは正直な人だ……」
「いいえ、何も……何もありません」
「姫。私はあなたの口から聞きたい、誰を愛しているのです」

 思わず目を見開いた。握り締めていた扇が手から滑り落ち、かつんと音を立てた。

「もちろん……秋雅様です」

 笑みをもらした秋雅は、月華の両肩を掴むとそのまま押し倒した。
 固い床の感触を背中に感じる。
 見上げる秋雅の表情が、豹変して男の顔をしていた。

「あの……」
「私に抱かれる事が出来るか、姫」
「秋雅様?」
「これからずっと、私に抱かれるのだ、それが幸せか?」
「もちろん。愛する者の側にいられる事は何よりの幸せです」
「私を愛していると?」
「はい」
「それは嘘だ」
「嘘など!」
「嘘ではないと?ならば愛する意味を間違えているのだ。確かに姫は私を愛していてくれているだろう。私も姫を愛している。しかし、それはどちらも恋愛じゃない」
「え……?」
「違うか、姫?」 

 秋雅の表情が、また元に戻った。その瞳はとても優しい。

「私は姫を抱けない。姫を抱くのが怖い」

 秋雅の顔はすぐ近くにあった。乗りかかっていた体を起こし、月華を引っ張り上げた。
 そして、優しく抱きしめた。
 耳元で囁く言葉に月華は、秋雅の手から逃れた。

「神楽を愛しているのだろ?」
「秋雅様!」
「初めはわからなかった。月華の文と神楽が私に見せた敵意。靄がかかった思考がひとつになった」
「…………」
「彼を愛しているのだね」

 隠し通すことは無理だと思った。秋雅の瞳はそう物語っている。
 この人はやはり帝になるために生まれてきた人だと、今までで一番強く感じた瞬間だった。

 ―― もうだめね……。

「……はい」

 ふり絞るように声を漏らす。

「私は……罪を犯しました」
「神楽を受け入れた?」
「はい……その通りです」
「なぜ、罪と?」
「罪でございます。天命に背いたのです」
「心は誰にも決められない。天が望んだとしても」
「…………」
「私も姫を女としては愛せない」

 秋雅の瞳を覗き込んだ。
 優しく笑うと、月華の頭を撫でた。幸成を思い出すような一瞬だった。

「私の愛情は、幸成殿が姫に向けた愛と同じ物。この腕で赤子の姫を抱いた時、この子を守りたいと思った。幸せにしたいとも思った。時と共にその気持ちが形を変えた。大切すぎたのか、自分では幸せに出来ないと悟ったからか、他の誰よりも姫の幸せを願った。姫の父上と同じように」

 秋雅の自分に向けられる優しさが分かった。それと同時に秋雅より神楽を愛した理由も分かった。
 同じ大きさの愛だとしても、秋雅への思いは支えてくれる家族の愛情。
 神楽へのときめき、苦しいほど欲した想い。命をかけてでも手に入れたかった愛は、もっと深く大きなもの。
 だから抑えきれない、隠す事もできない。この世で一番大切な愛情だった。

「私がここに来たのは、父の願いのためです」
「どういうことだ?」
「皆を幸せに出来る姫になって欲しい。それが父の願いでした」

 月華の言葉に秋雅は顔をしかめた。しばらく考えをめぐらせたあと落ち着いた声を上げた。

「それは違う」
「どうしてです?」
「私は幼い頃、幸成殿に会った。多分、亡くなられる少し前だと思う。こんなに弱々しい人がいるだろうかと思うくらい儚い方だった。私にどうしても会いたかったのだと言ってやって来た。しばらくじっと探るように私を見ると、優しく笑って月華を頼むと言った。あの方は誰よりも姫を大切に思っていた」

 だから、人々の幸せを一番に考えるはずが無いと言っているように聞こえる。月華は長年の呪縛から、信じられずに疑いの目を向ける。

「姫のその言葉には続きがある。幸成殿ほど天命を恨んでいた者はない。娘には普通の幸せを与えたかったのだ」
「続き?」
「皆を幸せに出来る姫になって欲しい……でも、すべてに逆らってでも、自らの幸せを手に入れて欲しい。そう思うのは父親としての欲だろうか……と」

 まじまじと秋雅の顔を見た。穴が開くほど見ていた。
 小さく頷く秋雅を見ていると、ぼんやりと顔がぼやけてくる。

「父様は、私の幸せを願ってくれたのですか?」
「ああ、そうだ。天命に背いてでも、自分の道を生きて欲しかったはずだ。どうやらその思いが私に伝染してしまったらしい。うむ、それはおしい事を……妻として姫を愛したかったかもしれない。こんなに美しい姫は、そうはいないからな」

 少し明るくからかうように、冗談めいた口調で秋雅は言った。

「秋雅様。父様がどう言ったとしても、私が誰を思っていても、天命には背けません。私の生まれた意味は秋雅様と結婚する事。従わないとなりません」

 秋雅はしばらくの間考え込んでいた。
 その目は今まで見た事がないくらい強い光を放ち、怖かった。東宮としての秋雅を見たような気がした。
 月は昇り始めた。
 満月は強い光を放ち、地に降り注ぐ。月華の夜はまだ始まったばかりで、抜け出せない天命の中に閉じ込められていた。
 ただひとつの救いは、秋雅の月華への想い。
 幸成に守られているような優しい思いに胸が熱くなった。
 この世に独りと思っていた孤独がやわらぐ。神楽とは違った意味で大切な人。
 秋雅にとっても月華は妻よりも大切だ。
 大切だから願うのは、お互いの幸せ。そして、その姿を見ることに違いなかった。

「私は、覚悟を決めてきたのです」
「覚悟ねぇ……涙にぬれた顔で言われても、説得力がない」
「……それは」
「さて、どうしたものか」

 どうしたら幸せになれるのか。どうしたら幸せにしてあげられるのか、秋雅は考えていた。

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