第四章 父の残した言葉
第一話 罪 +----------------------------------------------------------------+
空の月は、ほぼ円を描いていた。 月華の屋敷では重たく暗い空気が流れながらも、結婚の準備に追われていた。 月華は明日、秋雅の宮に入ることが決まっている。 明日にはもうここにはいないのだと思い、月華は一日屋敷の中をふらふらと歩き回っていた。 懐かしい想い出がいくつも浮かんでくる。 気持ちは落ち着き、心は静かだった。秋雅との結婚に何の迷いもない、そんな雰囲気を漂わせていたが、顔に笑顔はない。 重たい足取りで歩き、隅々まで目に留める。ときどき庭を見ては、また歩き出した。 向かったのはひとつの部屋、しばらくその部屋の前で躊躇していたが、そっと滑り込んで行った。 ひとまわり部屋を見回すと、部屋の真中に座った。冷たい床の感触がする。 悲しみに満ちた笑顔を浮かべると、音もなく崩れ落ちるように寝転んで瞳を閉じた。 ここはかつて幸成が使っていた部屋だ。 すべて幸成が生きていた時と同じままになっている。 するはずのない幸成の香りがするような気がした。葵の好きだった香を幸成はいつも焚いていた。月華の記憶に残る香りはいつもこの匂いだ。 微かに懐かしい残り香がここにあり、月華はずっと近づかなかった。中に入れなかった。 今日は、その部屋にどうしても入らなくてはならなかった。 幸成を思い出すために、そして父に別れを告げるために。 香りは月華の記憶を呼び覚ます。 天井を見つめた瞳に写っていたのは過去の自分。幼き日、幸成の腕の中で眠っていたあの頃。幸成の体調はすでにすぐれないものになっていた。伝わってくるぬくもりは常に高く、床についてばかりいた。 皆、幸成の床に潜り込むことを反対したが、月華はいつも自分の部屋を抜け出して、幸成のもとへ行っていた。 「また来たのか」と、笑って招き入れてくれる幸成の床で眠るのだ。 少しでも離れていたら、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと不安だった。片時も離れたくなかった。 時々ひどい咳に襲われていた幸成は、夜も眠りが浅くよく起きていた。 月華を起こさないように床を抜け出していたが、ぬくもりを失い追いかけた。 苦しそうに咳をして体を揺らす背中に小さな手を伸ばし、優しくさすった。 苦しさを隠し、優しい笑みを浮かべた幸成は、小さな声で呟いた。 「優しい子だ」 その言葉が何よりも嬉しかった。 「月華がいて、私は幸せだ」 その言葉で自分も幸せになった。幸成は月華を腕に抱き、あの言葉を囁く。月華を天命へ結び付ける一番の理由。 「皆を幸せに出来る姫になって欲しい」と。 頭を、背中を撫でる手が微かに震えていた。なぜ震えているのか、その理由は分からなかった。 記憶に残っているのは、言葉と一瞬の表情。喜びでも、悲しみでもなく切なさを含んだ儚い表情。忘れられない、父との想い出。 「父様との約束は守る。必ず守って見せるわ。この平安京に住むたくさんの人のためにも」 いるはずのない幸成に話し掛ける。会えないけど、どこかでよくやったと、優しい子だと誉めてくれている。その言葉のために月華はすべてを受け入れる。今までずっとそうだった。 「それが天命……父様が望んだ私の人生」 呟いた言葉にひとつ、涙が零れ落ちた。 頬をすべり、床に落ち、涙の痕をそこに残す。静に瞳を閉じ、そのまま眠りに落ちた。 月華が目覚めたのは月が空高く上った頃だった。自分の部屋に戻るため廊下に出て、月を見上げた。 大好きな月なはずなのに見ているのが辛かった。 もっと、もっと今にも消えてしまいそうなくらい儚い月ならいいのにと、目をそらした。 涼しい風が肌を刺す。 部屋の前まで着いても、部屋に入るのをためらい、いつものように高欄に腰掛けた。 明日にはもうここにはいない。その思いは心に大きな穴をあけ、いくら埋めようとしても埋まらない。寂しさがこみ上げ、体が震えたのは吹き込んでくる風のせいではなかった。 静かな夜を切り裂くように、悲しい音色が風に乗ってやってきた。月華の体は緊張し、高欄を強く掴んだ。 瞳を閉じ、耳を澄ます。 笛の音は体中に入り込み、埋まらないはずの穴を埋めていく。体中が震えた。こみ上げてくる熱い想いが震わせる。 耐え切れない想いは涙となって零れ落ちていった。 奥歯を噛み締める。声を立てて泣きそうな自分を押さえつける。 震える指は零れ落ちる涙を受け止め、月の光に反射して涙がキラキラ光って見えた。 頭で声がする。 「一瞬の気の迷い。始めて会った男に興味が湧いただけ」 否定する声もする。 「神楽だから大切なの」 「違う、違う。気の迷いだ。初めて会ったのが秋雅なら、秋雅に想いを抱いた」 「違う、違う。神楽だからこんなに思いが込み上げる」 ふたつの声が頭に響く。どちらが本当の心なのか自分でも分からなかった。ぐるぐる頭を駆け巡る言葉に翻弄されて身動きが出来ない。 握りつぶされるように胸の奥が痛む。 素直になりたいと叫ぶ心と、天命を守り幸成の望んだ姫になりたいという心とがぶつかり合う。 「神楽……」 膨れ上がる想いが止められない。 これが偽物だろうか? 気の迷いだろうか? そんな簡単に捨て去れる想いならばこんなにも苦しいはずがない。他の誰でもない神楽だけを求めている。 その時だった。 空に浮かんでいた月が姿を消した。 光が失われ、また現れる。 いつのまにか流されてきた雲に姿を隠し、また表し、落ち着かない。 月華が必死に押さえ込んでいる想いを急に揺さぶり始めた。 目に映る月、闇、月、闇。 次第に雲が増えていく。 闇、闇、月。 闇、闇、闇……。 支えていたものがぐらりと揺れ、言い争う声が勢いを増し、最後に頭に残ったのは言葉ではなかった。 ひとりの人の姿が浮かぶ。そして、心の隅間は満たされ、神楽で溢れた。 月華の顔から迷いが消え去った。 音もなく高欄から下り、庭に出る。足音を立てないように庭を突き進んだ。 笛の音は段々近くなる。早打つ鼓動の音と重なった。 塀に耳をつけると、伝わる音色は確かにそこで作られていた。 近くにある普段は使われていない扉に手をかける。鈍い音が微かに響き、静かに扉は開かれた。 月は、姿を現さなかった。 隙間ない雲に覆われて、闇の中にいるようだった。 扉の影から体を出し、外を覗き見る。 笛の音がそこで止まった。 人の気配に気付いた神楽は振り返り、開けられた扉に月華の姿を見た。 驚きに似た表情を浮かべたが、瞳は互いの瞳を見たままそらすことさえしなかった。 見つめ合い、絡み合う視線と視線。かける言葉を失ったように沈黙が生まれた。 白い手を伸ばすと、袖を引っ張った。 「姫?」 月を失った闇夜、かろうじて闇になれた目があるだけだ。 見上げる月華の表情が大人っぽく愁いを秘める。 神楽は、ぞくりと背筋を震わせた。 つかまれた袖から伸びる手をとった。 冷たい手のひらから、体に走った緊張が伝わってくる。 ためらいはない、後悔もなければ、罪の意識すらなかった。 そのまま手を引いて庭を抜け、自ら部屋に招き入れた。 蝋燭の光に浮かび上がる寝台に、神楽は我に返った。 「姫……!」 薄明るい部屋に立つ月華は、神楽の視線から逃れるように蝋燭を吹き消した。闇はさらに神楽に緊張を与えた。 「姫、以前に申し上げたはず。私も男だと。簡単に男を中に入れてはなりません」 じっと神楽を見ていた月華が口を開いた。 「簡単に?簡単な事ではありません。どれほど苦しみ、そして迷ったか……」 声は、涙に濡れていた。 苦しみぬいた想いを告げるように搾り出す。 神楽は、戸惑っていた。 思いが伝わればいいと、叶えばいいと願っていた。 この状態をどう受け取ればいいのか、そこまで考えていなかった。 受け入れられない願いだと一番分かっていたからかもしれない。 月華の行動をどう解釈していいのか、分からない。 「私を好きですか……?」 「…………」 「どうか教えてください」 縋るよう問いただす。 「私は、あなた様を……愛しております」 噴出す涙、足から力が抜け、座りこむように崩れ落ちる。 「姫」 壊れそうな月華を神楽は抱きしめた。 神楽の胸に顔をうずめた月華の頬を涙が濡らす。その姿がさらに愛しく、より強く抱きしめる。 「愛しているのは私のほうだ」 耳元でささやく声に、瞳を閉じた。神楽の腕の中で小さく囁く。 「どうか私を抱いて下さい」 「……姫」 俯きながら言う。 「なりません」 「なぜ?」 月華は勢いよく神楽の瞳をのぞき見る。 「なぜ?……それは」 月華の視線から逃れようと、瞳が空を泳ぐ。 抱きたくないはずがない。一晩中この腕に抱けたらどれほど幸せかと思う。 しかし、理性がそれを引き止める。 「天命ですか?」 「関係ない」 「では?」 「天命など関係ない。主上の言葉も私にはどうでもいい。姫のためなら罪も怖くはない。それくらいあなたが欲しい」 再び月華を抱きしめた。ささやくように耳元で呟く。 「私は姫を愛している。姫を一度抱けばもう離したくはない。それではいけない。一夜の過ちでもいけないのです」 「一夜の過ち……」 「姫は明日、天命に従うのでしょう。私が一度姫を抱けば、姫は一生罪を背負ってしまう。私は、天命に背けと言えるほど誇れる物を持った男ではない」 「愛情だけでは駄目ですか?地位も身分も欲しくはありません」 「姫……」 「神楽は、天命には背けないという私の心を知ってらっしゃるのですね。でも、心までは従えない。愛した人に愛されるのなら一夜の過ちでもかまわない。私を愛してくださるのなら、どうか私の願いをお聞き入れ下さい」 神楽の決断はなされない。 頭とは裏腹に、求める腕がある。 今度、ふたつの声に耳を傾けているのは神楽だった。 「神楽。この部屋にあなた様を入れた時点で罪なのです。父の言葉にも背きました。皆が幸せであって欲しいと、今でも思っています。でも、何より自分が幸せになりたいのです。愛する者の腕の中で眠りたい。愛されたと言う実感が欲しいのです」 「姫」 「私を愛して下さっているのなら、二人で罪に落ちて下さいませんか?」 「姫」 月華は神楽の頬に触れた。 冷たい指先は微かに震えている。神楽はその手を握ると、そっと唇に寄せた。 「姫ではなく、月華と……。私はそれほど身分の高いものではありません」 微笑を浮かべた。 「月華……」 甘い吐息混じりの声で囁く。真っ直ぐと見つめる強い眼差しに、体中の血が熱を帯びた。 静まりかえった部屋。 月は姿を隠し、一筋の光もない。 薄暗い部屋に二人はいた。 その距離は吐息と、温もりを感じるほど近い。 月華の頬を涙が伝う。その涙に優しく口付けをすると、神楽は微笑んだ。 幸せになる事が罪ならば、罪にこの身を投げ込もう。 愛した人の腕に抱かれるのが罪ならば、神楽の触れた場所に刻印を施せばいい。 罪でもいい。 裁かれても構わない。 たった一瞬でも、望む時を手に入れ、自分の望む自分で生きられるのなら、どんな罪でも受けよう。それが愛であると、心が叫んだ。 人は生まれてくる意味がある。 天命のために生まれたのではない。この愛のために生まれ、そして生きてきたのだと、はっきりと言える、月華はそう思った。 ふたつの影はひとつになり、罪色の夢へと落ちていった。 +----------------------------------------------------------------+
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