第三章 禁断の恋
第四話 月華の心 +----------------------------------------------------------------+
神楽は、夜になると月華の屋敷へと通うようになった。 愛した女の元に通う男という図は、あたりまえの様だったが、普通とは違っている。 ただ、笛を吹くためだけに彼は通っていた。 もしかしたら会えるかもしれないと言う甘い期待も神楽の中にはあったが、それは最初の数日だけだった。 彼女の想いがどこにあるかなど分からない。はっきりと分かっているのは、月華は屋敷の外へは絶対に出てこないと言う確信だった。 それでも良かった、近くにいれるだけで、好きだと言ってくれた笛を奏でるだけで神楽は幸せだった。 自己満足かもしれない。 しかし、それ以外にこの想いを守る術を知らなかった。ただ、忘れるなんて出来ない。出来るはずがない、生まれてしまった想いはもう止める事は出来なかった。 美しい夜に美しい音色。神楽は伝えることの許されない月華への想いを、語らず、そして求めず、その音色だけに託した。 少しだけ、彼に希望を与えるのは、神楽を排除しようという動きが見えないことだ。笛の音色は届いているはず、何らかの動きがあるかと思ったが、誰も神楽を取り押さえに来ない。 真意は分からないが、音色を奏でる存在を、少なくともここでは受け入れられているのではないかといいほうに考えた。 屋敷の者達がその音色と、それを奏でる者の気持ちに気付かないはずがなかった。 音色からも感じる、強い想い。趣に疎い者が聞いても感じるほど、音色には熱い想いが含まれていた。すべてを凌駕するほど強い想い。揺らぐことのないまっすぐで、純粋な音色を奏でる。 恐ろしいほど、音色は美しかった。 美しすぎて、恐怖を感じた。 月華を連れ去る、天からの音色に聞こえる。月華の心を揺さぶる、魔笛のようにも聞こえる。 どちらにしても、月華の心を奪うだけの力があった。 初めて神楽がやってきた夜、月華は部屋を抜け出そうとした。 その音色に誘われるように、戸惑いも何も感じない。神楽の音と気付き、無邪気に会いに行こうとした。 それがどれほど重大な事かなど考えてもいなかった。 止めたのは、安里だった。 「姫は天命を守らなくてはなりません。他の殿方と会うことは許されません」 「でも!」 「お会いする事はなりません」 「安里!」 「会う事は罪と思いなさい。相手も命がけです。その想いを受け入れると言うのなら天命に背き、罪を背負いなさい。簡単な想いで会おう何て考えてはなりません」 厳しい言葉が月華に突き刺さった。 たやすく会う事は許されない。言われて初めて思い知る現実。 安里の言葉に気付かされ、そして理解した。 安里が本当に言いたくて言えない言葉も月華は感じとった。 「本当に愛して、命をかけてでも手に入れたいのなら、会いなさい」と言う、言葉にすることさえ許されない天命に背く言葉。 会わせて上げたいと言う願いもあったのだろう。 決めるのは月華だと知っていたからかもしれない、最後まで「部屋から出てはなりません」とは言わなかった。 月華は夜が訪れると、高欄の側に座っていた。 月を見て、待った。笛の音が聞こえてくるその時を、ひたすら待ちわびていた。 神楽の音は、月華に優しく届く。 聞けるだけで嬉しかった。 そして、涙が溢れた。 楽しくて仕方がなかった音色が一日、二日、三日……と日が立つにつれて切ない想いを呼び起こし、悲しく、苦しく心を痛めつけた。 日に日に想い耽るようになっていく。 心はここにあらず。 楽しみにしていたはずの秋雅からの文も、惟高が来た事にすら気がつかなかった。 惟高も月華の変化に気付き、安里を問い詰めたが、特に変わりは無いときっぱりと跳ねのけられてしまい、首を傾げるしかなかった。 屋敷の者達は、月華の事が心配でならなかった。 不安定で弱々しい、今まで誰にも見せないで来た姿が表に現れはじめた。 ふと見せる表情が女らしく、艶っぽい。 子供だった月華が、少しずつ変わり始めた。 叶わない恋が月華を導き始めたと、誰もが思った。幼かった少女が大人へと変わっていく。 月華は、神楽が何を求め、何を伝えるために毎日通い笛を奏でるのか、その心をずっと考えていた。 考えて、考えて、考えない時はないと言うほど、頭の中を支配する。 神楽の存在が日増しに大きくなっていった。 たった一度会った人、綺麗な人だから忘れられないわけではない。あの眼差しが忘れられない。 震える体を優しく抱きしめてくれた大きな腕、微かに香った雨の匂い。伝わってきた温もり。すべて、今も体に刻まれていた。 毎夜、聞こえる笛の音にその記憶がよみがえる。 胸の奥が痛んだ。苦しくって仕方がなかった。どうしてこんなに辛いのか、自分の感情に自分がついていけなかった。 心と体がばらばらになって自分でどうしていいのか分からない。 月華の頬を涙が伝っていった。 消化しきれない想いが溢れ、言葉にも出来ず、形にすることも出来ない膨れ上がる想いは涙となって消えていった。 見上げた月は丸くなっていく。近づいてくる婚儀の日に、苦しみは増すばかりだった。 「私はどうしてしまったのかしら。今まで迷いなどなかったのに。どうしたいのか自分で自分が分からない」 自分を見失いかけている。 秋雅と結婚すると言う現実が目の前にちらつく。 嫌だと思った事はなかった。それが当然と思っていた。 それなのに、秋雅の文より神楽の音色が心を揺さぶった。 一度会っただけの神楽のほうが、もう何年もやり取りしている秋雅より、強く心に響くのだ。 一度も秋雅を見た事がないからだと言い聞かせる。 衝撃的な出会いがそうさせているのだと言い聞かせる。 耳から入り込む音色はそのすべてを否定した。 今側にいるから、この音色があるから、神楽への想いが膨らむ。 どうしてここに秋雅はいないのか、責める思いさえ生まれてきた。 毎日来る秋雅の文、返事を書くのが今は苦痛だった。 心の戸惑いが文にまで現れる。 気付かれるわけには行かない。知られるわけには行かないという思いが先行して文章にならない。 一度書いた文を読み返しては、丸めて投げ捨ててばかりいた。 「本当に愛しているってどういうことかしら。命をかけてでも手に入れたいもの。生まれてから一度もそんなに強く欲したものはない」 何よりも大切だった家族、幸成をなくしたあの日から、失う事へ恐れを抱くようになった。 大切なものほど手からすり抜けていってしまうのではないかと、心に大きな穴をあけることを知ったからである。 自分が天命を受けていると知った時、何を望んでも自分の生きる道は決まっていると知った。 だから、求めても自由は手に入らないと初めから望まなかった。 どうせ手放さなくてはならないのなら、初めから知らないほうがいい。諦めるのには慣れていた。ここには何もない、だからよけいに手にいれたいと思わなかった。 手に入らないものを欲する事は、悲しい思いに繋がると記憶に刻み込んでしまった。 そして、何よりも月華を天命から逃さなかったのは、幸成の残した言葉だった。 父の望んだ姫になる事が、月華の望みだった。 「皆を幸せに出来る姫になって欲しい」 今でも耳元で幸成がささやいているような気がする。 父の願いにそむきたくない。それが父と自分を繋ぐ絆のように思えた。 見上げた空には月がある。幸成がいつまでも見守り続けているかのように、優しい光が降り注ぐ。 月を見ているのが辛くて瞳を閉じた。 頬を伝う涙の筋は幾度となく痕をつけ、床に消えていった。 「大丈夫、父様……私は天命に背いたりしない。願うのは平安京の人々の幸せ……」 呟く声は震えていた。 神楽の笛は、相変わらず悲しい音色を運んできた。 聞かないでいよう、聞いてしまうと心が揺らぐ。押しつぶされるように胸の奥が痛む。 「どうして、聞かずにいられないのかな……」 切ない嘆きの声にまた、涙が溢れた。 この音色が聞こえなければどれほど心穏やかになれるだろうかと思った。 しかし、聞かずにいられなかった。聞きたくって、聞きたくって仕方がない。頭とは裏腹に、心はその音色を求めていた。 顔を伏せ、膝を抱える。美しい着物を握り締めた。涙は止まることなく溢れ、息苦しそうに空気を飲み込む。悲痛な叫びを上げたくても、一緒に飲み込んだ。 「私は……神楽が好きなのね……この世の誰よりも。だからこんなに苦しい」 永遠に語る事を許されない言葉を、誰にも聞こえないように押し殺した声で呟いた。 「神楽も辛いのかしら?神楽も私を好きでいてくれるのかしら?聞こえてくる笛は悲痛な叫び……ごめんなさい……ごめんなさい神楽……ごめんなさい……」 月華は、自分を責めた。 神楽の想いを受け入れられない自分を誰よりも恨んだ。 天命を受けた自分が憎かった。 普通の姫であったらと、願わずにはいられなかった。 どんなに貧しくても、どんなに苦しい生活でも、神楽と愛しあえる自分だったらと、思わずにはいられなかった。 月華はゆっくりと立ち上がると、部屋に入って行った。 笛は月明りのもと鳴り止まない。その音から逃れるかのように自室へと戻った。 部屋に入っても神楽の音を聞いていた。 あれほど独りを嫌っていた月華だったが、今はあまり部屋に人を近づけなかった。 独りになって神楽の音色を聞く。 想い耽っている今の自分を誰にも見せたくなかった。 この愛を伝えられたらどんなに嬉しいか。 言葉にしても届かない、文に書き記しても届かない。 伝えてはならない、でも知ってもらいたい想い。 月華の中で行き場のない想いについて激しい葛藤が繰り広げられていた。 ―― 結ばれる事はなくても、この想いを……。 月華は、筝の琴の前に静かに座った。 自分でもなぜそうしたのか分からない。 意識は泣きはらしたせいか朦朧としていた。 この想いを伝えるだけでいいと、月華の心が叫んだのだろう、神楽の笛に合わせて弦をはじいた。 屋敷中にも響き始めた。その音に屋敷中の人間が反応を示した。 寝ていたものは飛び起き、仕事をしていたものは手を止めた。視線を月華の部屋のあるほうに向ける。その瞳は悲しみを表していた。 「姫様……」 音色が奏でる世界は、誰にも止める事が出来ないふたりだけのものだった。 重なり合う音色と音色。 その音は深く柔らかく美しい。 そして、互いを想う愛情から来る温もりがこもっていた。 伝えられない想いを抱え、会うことも許されない。結ばれる事など永遠になく散る恋の花。 れでも心は重なり合い、音色のように伝わり語り合う。 ――たった一度会っただけなのに……。 時の長さなど関係ない。 誰の存在が一番大きいか、それが一番大切なのだと知った。 月華にとって神楽は、秋雅より大きな存在であり、恋を知らなかった神楽にとって月華は、すべてをかけてでも手に入れたいたったひとりの人だった。 惹かれあい、感じあった。 あの一瞬がすべて。 互いの心に入り込むのには、充分の時間だった。 神楽は一目で恋に落ち、月華は神楽の音色によって眠っていた想いに目覚めた。 心は天命には従えない。 心は誰もが自由だ。 それが誰にも認められないものだったとしても。 神楽の想いが音となり、月華の心に届いたように、月華の奏でる琴の音は神楽の心にも届いた。 想いを感じとった神楽の手は、喜びに震えていた。 しかし、通じ合った心はよけいに苦しみが深くなる。深い闇の底に落ちて行った。独りではなく二人、手を取って。 本当の恋だからこそ、苦しくて仕方がない。切なさが刀となって心を切り裂いていく。 悲痛な叫びに心が震えた。 ――こんなに好きなのに……。 神楽は天命を恨み、月華は自分の宿命をこの時ほど呪った事はない。 月は、二人に優しく光を落とす。 しかし、ふたりはその温もりを感じる事は出来なかった。 +----------------------------------------------------------------+
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