第三章  禁断の恋

 第三話 神楽の心

   <小説>   

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 夢のような時は過ぎ、嵐も夜明けと共に去って行った。

 平安京の片隅に、質素な屋敷がある。
 このあたりは貴族の中でもわりと身分の低いものたちが屋敷を構えている。小さく閑静だったが、落ち着いた雰囲気の屋敷。
 男は、高欄の側で寝転んでいた。ただ、じっと空を見ている。流れていく雲はときどき月を隠し、儚い光を奪い去る。
 また現れる月の光に目を細めた。
 注意力に欠けていたのだろうか、近づいて来る足音にも気付かない。

「なに独りで世界に入っている、神楽」

 急に聞こえてきた声に、神楽は体を起こした。

「公孝《きみたか》……頼道《よりみち》…何しに?」
「何しに、はないだろう」
「ほら、酒の土産だ」
「ああ、有難う」

 神楽は、女房に杯を持ってきて欲しいとたのんだ。
 二人の男は好き勝手に座り込み、くつろいでいる。
 公孝は、近衛府の少将で、いずれはもっと上の地位へと出世の決まった育ちのいい貴族。
 頼道は、同じ雅楽寮の仲間だった。二人とも神楽の数少ない友人で、特に気心の知れた存在だ。

「最近、珍しく心ここにあらずだから心配して来たのだよ」
「どっか悪いのではないか」
「別にどこも悪くない」
「この間からずっとそんな調子じゃないか。笛を吹いていても間違うしさ。高藤様が驚いたくらいなのだからな」
「たまたまだ」
「頼道、もしかしたら……」
「もしかしてって、もしかして?」
「何だよ、一体?」

 公孝と頼道が面白そうに笑顔を浮かべ、こそこそと耳打ちしているのが気になって仕方がなかった。

「気になる姫ができたのだろう!」

 口に含んでいた酒を思い切り飲み込んでしまい、軽く咳き込んだ。

「何を言い出すかと思えば……」
「あわててると言うところが怪しいね。お前、もう十八歳なのだぞ、姫の一人や二人通っているのが普通だろう」
「公孝に同感だね、まったく興味なさそうなのだもの。もののし同士の話にも入ってこないし。いつも涼しそうな顔しているし」
「お前、もてるって分かっているか?」
「俺が?初耳だ」
「おいおい、男色か?」
「冗談は止めてくれ」

 相変わらず涼しい顔つきのまま酒を飲み干した。
 どんなにからかわれても、ばかにされても顔つきすら変えない。冷静さを保つ神楽がよけいに妖しいと睨んだ公孝はさらに追及を強めていった。
 神楽で遊べる事などめったにない、こんなに楽しい事を逃してたまるかと言う子供のような顔をしている。

「で、どこの姫だ?」
「そんなんじゃないって!」

 語尾が強まった。少し冷たい視線で二人を睨みつける。これ以上踏み込むなと言う神楽なりの合図だった。
 頼道はびくりと体を震わせ、公孝は顔をしかめた。

「ならば、どうして恋の病のように生気を失っている?」

 神楽は黙り込み、空に視線を移した。
 そこには丸くなりかけの月が浮かんでいた。秋に近づく風を感じながら、月の光の下に寝転ぶ。丸くなるという事は段々と満月が近かった。
 中秋の名月がもうすぐ側まできている。
 月華の屋敷から帰ってきた神楽は数日間、心がここに戻ってこなかった。
 山中に置き忘れてしまったように、呆然と生活している。月を見てはあの姿を思い浮かべ、あの声が話し掛けてくる。「あなたの笛が好き」……と。
 月華に聞かせるように笛を吹き続けるが、ふと浮かぶ月華の笑顔にはっとなり指が止まってしまった。
 間違うのもあたりまえである。
 
 ―― この状況を恋と言わず、なんと言うのか……。

「月を……月を見ていただけだ」
「月?」

 二人は首をかしげ、空を見上げた。なんの変わりもない、ただの月にしか見えなかった。

「確かに美しい月だが……」
「お前、月に興味など持っていたか?」
「思いふけるほどじゃないだろう」
「やはり、恋の悩みだ」
「どうして恋にしたがる」

 呆れた声を出した神楽に、公孝が主張した。

「もともとお前は色男だが、最近色っぽくなったからな。時折見せる溜息を漏らす姿はまたなんともいえぬほど、恋の色を感じる」

 無表情だった神楽の顔、片眉だけピクリと動いた。
 細かな反応も見逃さないと言う二人も、何を考えているのかまったく読めなかった。

「神楽の表情は読むのが難しい」
「公孝ほど恋多き男が言うのだ、俺も信じているのだが……」
「そのような事はないと言っているではないか」
「分かったよ」

 公孝は、諦めた風に話を変えた。

「それよりも、お前達、月姫の屋敷に行ったのだろう?月姫とはどんな方だ?」
「とっても、筝の琴の上手い方だった。あまりの上手さに唖然としたよ。なぁ、神楽」
「あ?…ああ……そうだな」

 うろたえた神楽がそこにいた。

「神楽、もしかして!」
「な、なんだよ」
「惚れたのは月姫か?」

 公孝が、楽しそうに笑顔を浮かべている。

「そう言えば、あの日。お前ずっと帰ってこな……」

 頼道は言葉を途中で止めたまま、公孝と目を合わせた。楽しそうだった表情は消えうせ、みるみるうちに青ざめていく。

「おい…まさか……お前月姫に手を出したなんてこと…!」

 神楽は睨みつけた。

「冗談じゃないぞ、あのお方は……」
「手は出していない!」

 公孝の話を遮るように声をあげた。

「手は出していないよ」
「神楽……」

 怒りを見せ、血の気は一瞬で姿を消し、残ったのは切なく恋をする一人の男の目だった
 。藤壺を思い続けた光源氏に似ていると思ったのは頼道だった。

「会ったのか?」
「……ああ」
「どうしてまた」
「偶然だ。西の対に修理に行って、雷を怖がって飛び出してきた月姫と偶然出くわしてしまった。ただそれだけだ」

 二人ともどう言葉を返していいか分からなかった。
 絶対に止めるべき事と分かっていても、目の前にいる神楽があまりにも切なくて見ていられない。
 普通の姫ならば応援するところであるが、相手が悪い。
 普段から付き合いの深い二人も、こんな神楽の表情を見るのは初めてだった。それくらい月華への想いが本物だと言っている。

「美しい姫と言うのは本当なのだな」

 静まり返ってしまったこの場を、少しでも明るいほうへ持っていこうと公孝が言った。
 あまりこの場にふさわしい質問ではないと、言ってから後悔した。

「ああ、あんなに綺麗な姫は他にはいない」 

 珍しく見せた微笑みに二人は愕然とした。本気なのが手に取るように分かる。

「神楽!悪い事は言わない、諦めろ」
「分かっている。叶わぬ恋だ、何かしようなんて思っていないよ」
「忘れろ!とにかく酒だ!飲んですべて忘れるのだ」

 公孝は神楽の杯に溢れるほど酒を注いだ。その手は微かに震えていた。
 公孝も頼道も、神楽と言う人物を一番良く知っている。
 だからよけいに怖かった。
 これほど真っ直ぐな男はいないと胸をはって言える。
 その男が恋をした。
 叶う恋なら物にしただろう、その情熱をすべて打ち付けて。
 叶わぬ恋の情熱はどこへ行くのだろう。
 行き場のない想いは、行ってはならない方へと向かわないだろうか。
 それが一番心配だった。
 天命を受けた姫に手を出す、それほど大きな罪はない。神楽を滅ぼすほどの罪だろう。忘れてくれと願う事しか出来ないのが悲しかった。
 神楽は公孝達と酒を酌み交わすが、頭は別な事を考えていた。忘れなければと、何度も自分に言い聞かせた。忘れたいと思えば思うほど月華への思いが膨れ上がった。
 あの姿が、あの声が、あの言葉すべてが神楽の心に深い傷をつけた。痛みではない、それは甘い傷跡だった。
 幾日時が経っても、何をしていても身が入らず、ひたすら月華を追い求める。月を見ると悲しくなり、丸くなっていく月を見ては胸が痛んだ。

「神楽と申したか」

 内裏を歩いていた時だった。
 神楽は、どこからともなく現れた秋雅に話し掛けられた。
 東宮がこんな下位の貴族に話し掛ける事などめったにないので、耳を疑った。
 驚きと、そして罪悪感で視線が空を泳いだ。
 会いたくない人に会った。頭に浮かんだ言葉はそれだった。
 秋雅がどんな人物であれ、天命は彼と月華を結ばせた。この人が月華の夫になる人なのだと思い知る。羨ましさではなく微かな憎しみさえ覚えた。
 神楽の心を知るはずもない秋雅は、神楽を捕まえて喜びをあらわにした。朝長は呆れ顔で側に控えている。

「この間はご苦労だったね。とても楽しい一時だったと喜びの文が届いたよ」
「ありがたいお言葉、有難うございます。月姫様にも、そうお伝えいただければ幸いでございます」
「嵐に巻き込まれて大変な思いをしたとか。楽士が皆泊まるには少し狭かったのではないか?」
「そのような事はございませんでした。お心遣いいただき、大変感謝しております」
「屋敷の修理を手伝ってくれたと聞いたのだが」
「微力ながらお役に立てて光栄です」
「月華が横笛を大変誉めていたが、そなたの事だろう」

 神楽は一瞬反応を見せたが、感情をまったく顔に出さずに自分でも驚くほどあくまでも東宮ともののしをしているのに気付いた。

「他にもたくさんいますので、私のことというわけではありません」
「私も、そなたの音を聞いてみたいものだ」
「有難うございます。月姫様の筝の琴はとてもすばらしく、楽士一同、大変感動させていただきました。そうお礼申し上げていただきたく思います」

 深く頭を下げた。そして、しばらく考えてから控えめに付け加える。

「東宮自らお声をかけて頂いて大変光栄な事ではあるのですが、先を急ぎますので失礼させて頂いてもよろしいでしょうか」

 秋雅の月華という言葉をこれ以上聞きたくなかった。
 早く秋雅から開放されたいと、失礼にも無礼な態度を取った。それに怒りを見せたのは朝長だった。

「無礼ではないか」

 秋雅は神楽を見据えると、笑みを浮かべた。

「朝長、良い。時間を取らせてしまったようだね」
「このように光栄な出来事はめったにありませんので、大変嬉しく思っております」
「そう、光栄な事はずなのですよ!」

 朝長は身分の低い男にばかにされたようで、秋雅の代わりに腹を立てていた。

「ご無礼をお許しください」
「何、かまわない。お前のような者が周りには少なすぎる。媚を売るばかりが脳ではない」

 機嫌よく笑みを見せていた秋雅は、頭を上げ、自分を真っ直ぐと見つめる神楽の瞳に笑みが消えた。
 そこには、炎が燃えているようにゆらゆらといきりたつ神楽の感情が溢れていた。
 背筋を振るわせたのは秋雅だった。

「失礼いたします」

 神楽はもう一度頭を下げると、歩き去って行った。
 その後ろ姿を秋雅は見つめ、混乱していた頭が急に落ち着いてきた。

「あいつ……?」

 訴えている真意は分からなかった。しかし、あの視線の奥にあるものは敵意だったと感じとる。剥き出しになった刃物を感じさせられるような鋭さがあった。

「何て無礼な」

 未だに怒りを見せている朝長は、すたすたと歩いていってしまった。

「あれだけ美しいものだと、睨まれても悪くない」

 冗談半分に大声で、朝長に話し掛けた。

「止めてください、冗談は!」

 振り返り、あからさまに軽蔑した表情を浮かべて叫び返した。
 秋雅は予想通りの反応に声を殺しながら笑っていた。
 もう一度神楽の去っていった方向に目を向けた。もうそこに神楽はいなかった。

「一体……?」

 秋雅は首をひねった。

 秋雅から逃れるように立ち去った神楽は、自分で自分の事を打ちのめしたかった。秋雅にあたっても仕方がない。かといって、天命に当たる事も出来ない。どんなに疎ましい天命もそれがあるから今があるのも事実だった。
 行き場のない想いに苛ついた。忘れられない想いに苦しんだ。
 記憶がすっぽりと抜け落ちて欲しいとさえ思った。

「叶わない恋なのだ」

 簡単に諦められるくらいなら、もう忘れているだろう。
 諦められず、忘れるどころか、日増しに月華のことを考えるようになっていった。
 夜がきて、月を見るのがたまらなく辛かった。嫌でも思い出してしまい、胸の奥が痛むのだ。
 神楽の思いは本物だった。命がけの恋かと問われれば「そうだ」と答えるだろう。命をかけて天命が変えられるのなら、間違いなく命をかけて戦った。
 自分がこんなにも恋に溺れる人間だとはじめて気がついた。
 声が聞きたかった、側にいれるだけでよかった。
 体が勝手に動いた。
 馬を走らせ、山に入る。
 恐れも罪悪感もない、自分の心だけに従って、突き進む。
 意識が飛んでいたのかもしれない。
 いつのまにか月華の屋敷へとたどり着いていた。
 むしろ、簡単にたどり着いてしまったことの方に驚いた。途中で止められたほうがよかったと思うくらい、運が向いていることが怖くなった。
 息を大きく吐き、今までの勢いは失われ、屋敷の前に立ちうろうろする。
 屋敷に入れてくれるはずもない、帰る事も出来ない。

「何をしているのか」

 溜息をと一緒に、言葉を押し出した。
 神楽は西の対近くに歩いて行った。
 この塀を越えれば、月華の部屋までいけるだろう。
 しかし、それは体が拒否した。出来るはずがない。
 思いを伝える事もできない、ましてやこの手に抱けるなどとは考える事も罪に思えた。
 何が望みなのか自分でも分からなかった。溢れた情熱を自分で止める事が出来ない。
 伝えたい想い、言う事の出来ない想い、伝える術が見つからない。
 神楽は懐から笛を取り出すと、そっと口をつけ、吹き始めた。
 静まり返った夜に溶け込むように、美しい旋律が流れ出した。
 空を飾るたくさんの星と、ひとつの月。
 そして、その月を眺め、高欄に腰掛けている月華の耳に笛の音色が届いた。
 心の奥から染み渡る優しい音色。
 その音色は、月華を優しく包み込み離さなかった。

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