第二章  運命の姫君

 第一話 退屈な日々

   <小説>   

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 京から少し離れた山中に、ひっそりとたたずむ屋敷があった。
 風情は隠れ寺のように大人しく、静まり返っている。
 広い屋敷には色彩に溢れた庭があり、その庭を眺める少女がいた。
 高欄によりかかり、熱を含んだ空気を感じている。風は少女の絹のような漆黒の髪をさらい、通り過ぎていった。
 美しい藤棚を見つめている瞳は眩いほど光に溢れていて、ただひとり別の世界を夢見るように幸せを噛み締めていた。
 藤棚の下に行って、花に触りたいという思いにかられたのか、少女は庭に出ようと立ち上がった時だった。

「月姫様。何をなさるおつもりでございますか?」

 厳しい声が響いてきた。落ち着いた、年配者の威厳を感じるような声。

「安里《あさと》……」

 現れたのは古株の女房で、振り返った月華の目には、心を見透かすような鋭い光を放つ瞳が写る。
 止まったまま動かなくなってしまった足をくるりと回転させ、安里の方に体を向ける。その姿は、蛇ににらまれた蛙のように大人しかった。

「姫様、もう十六歳になられたのですから大人しく家の中で過ごして下さい」
「……だって、退屈なの」
「退屈だなんて」
「することがないのよ」
「字の練習は?」
「もうどんな字だって書けるわ、漢字だって読み書きできるもの」
「琴の練習は?」
「何度もしたわ」
「では、絵巻でもご覧になられたらよろしいではないですか」
「もう飽きるほど見たもの、全部言葉で言うことだって出来るわ。みんな、みんなもう飽きたの」

 月華は、食って掛かった。

「何もしなくてもよろしいではないですが」
「何もしないと退屈だわ。私、少しは大人になったと思うのよ、前は楽しかった事があんまり楽しくないのですもの」
「それのどこが大人なのです。好奇心だけが旺盛になって。大人しくしている事が大人になったことです」

 子供っぽく顔をしかめる。

「それに楽しみはあるではないですか」

 安里はその表情に笑いそうになったが、それをこらえて言う。

「それって、文のこと?」
「もちろんでございます。皇太子様からの毎日の文は、何よりの楽しみでございましょう」

 安里をじっと見上げる月華の表情は、変わらなかった。少しすねたような顔をしている。

「確かに秋雅様の文は楽しいけれど……まだ来る時間じゃないわ。安里、藤の花を一房切って来てと、頼んでおいて。秋雅様の文に付けてあげたいの」

 そう言うと、寂しそうに部屋に戻って行った。
 その後ろ姿を目で追って、少しかわいそうだっただろうかと安里は後悔した。
 母親の葵の変わりに月華を躾る必要があったため、色々な面で月華に厳しくしてきた。
 ここには自分以外、月華に素晴らしい姫とはどういうものかを教える人間がいないからである。
 安里は、月華が孤独の中にいる事を知っていた。
 寂しさを紛らわすために、ありとあらゆるものに興味をもち、退屈しのぎに身に付ける。
 秋雅からの文の影響だろうか、姫には必要のない漢字でさえ理解していた。月華ほど頭のいい姫は、京中捜してもいないだろう。
 子供っぽく振舞うのも、そうした方が構ってくれるからだった。
 大人しく部屋にこもっている事も出来るが、そうしないのもひとりでいるのが嫌だからである。
 それをすべて知った上で、安里はそれを誰にも言わなかったし、月華への接し方も変えなかった。それがいずれ月華のためになると信じていたからである。
 ずっとここに、このまま居るのなら自由にさせただろう。
 しかし、月華はいずれ内裏へ入る者。自由奔放ではいつか苦労する。だから心を鬼にして、甘い顔は見せない。
 安里は、月華を任されてからそう心に決めていた。

「損な役回りね……」

 力なく、呟いた目には月華の部屋が写る。月華を見る安里の目は、子供を見る母の目に似ていた。
 閉鎖的な空間は人の出入りも決まっていて、新しいものが入ってこない。
 秋雅は、月華のためにたくさんの遊び道具や調度品、珍しい食べ物、綺麗な着物を贈ってくれた。
 中でも月華の楽しみは、秋雅が送ってくれる文だった。
 それが唯一、屋敷の外の世界を知る術だったからである。
 女性に文を送る時、たいていかな文字であるのだが、秋雅は月華が漢字を読み書きできるのを知っていたため、漢字を織り交ぜて書いていた。
 他の姫がそれを見ても、何を書いているのか分からなかっただろう。
 漢字を覚えたくて覚えたわけではない、暇つぶしに難しい書物を見ているうちに覚えてしまったのだ。
 漢字の書は月華の世界を広げてくれたが、それほど興味のあるものではなかった。
 秋雅の文は、色々な内容を書き記してくれるので、それに想像をめぐらせて楽しむのが好きだった。ひたすら思い描く京に思い馳せているだけで、月華は時を忘れられる。
 一人ぼっちで部屋に篭っていても退屈しなかった。
 大人しく部屋に戻った月華は、昨日来た秋雅の文を眺めていた。
 いつも話し相手になってくれる女房の若葉も、今日は来てくれなかった。

「若葉も忙しいのかしら……退屈な時にひとりでいるの嫌なのよね」

 無性に人恋しくなるのだ。
 話し相手と言えば、小言ばかり言う安里か、自分付きの女房の若菜くらいだった。
 後は月華自身で捕まえない限り、話し相手として部屋にやってくるものはいない。
 しかも、屋敷中探しても男に出会うことはほとんどなかった。
 ここにいる男と言えば、下働きの男がニ、三人、月華の行かないようなところで働いている。
 月華に謁見する男はただ一人、惟高だけだった。
 惟高は宮使いしており、毎日一度決まった時間に屋敷へやって来るのである。惟高が秋雅からの文を預かり、必要なものと一緒に持ってくる。
 彼が屋敷と京を繋ぐ人物で、他の誰とも接触がない。
 だからだろうか、ここには月華の興味を引くものがひどく少なかった。
 月華が孤独を嫌うのは、彼女が孤独だったからである。
 ひとりを嫌うのも、捨て去られたように誰もいない世界が怖いからだった。
 六歳の時に、父である幸成を亡くしてからずっと独りだった。
 人々は幸成が先に世を去り、葵と幼い娘が残されると思っていた。しかし、驚いた事に現実とは予想つかない出来事が起きるようで、月華が生まれてすぐ、葵がこの世を去った。
 月華が一歳になるのを見ることなく、流行り病で急に息を引き取った。だから、月華に母の記憶はまったくなかった。 
 幸成は妻の亡き後、隠れ住むかのように山奥に移り住んだ。
 京の雑踏から離れたかったと言う事もあったが、それよりも主上の命令によってと言ったほうが正しいかもしれない。
 主上は、月華を京に置いておくことを恐れた。
 人目にさらされることから避けるために、山奥に隠したのだ。
 幸成にとっても、京はどうでも良かった。
 悪くなる一方の体を抱えたまま、少しでも月華が大きくなるまで生きていたいと必死に耐えていた。
 彼が六年も生きたのは、気力と精神力としか言いようがない。月華のためだけに生きた。少しでも長く側にいる為だけに生きたのだった。
 体には限界があるようで、幸成は冬の寒い日にこの世を去った。
 月華の中に幸成の望むような父の記憶は残った。しかし、それは悲しい死の記憶と、呟くように聞かせていた言葉だけだった。

「月華には、皆を幸せに出来る姫になって欲しい……」

 途中でかき消された言葉。記憶から抜け落ちたその言葉を月華は思い出せなかった。
 言葉の意味よりも、今でも耳に残っている父の優しい声と、温もりを覚えている事の方が幸せだった。
 ほんの少しの家族の記憶は、心に温かさを刻み込んだ。
 大好きだった父の記憶。
 普段はあまり思い出さない。それは、あまりに悲しい場面を月華に見せ、月華を闇に陥れるから。
 父の記憶は、死の記憶。一番鮮明に覚えているのは、雪の上に広がる鮮血の血の色と、冷たくなって動かない父の姿。頬に降る雪の冷たさは忘れられない。
 悲しい過去を自ら封印し、楽しい記憶だけを思い出そうと試みていたが、未だに叶わない。

「ひとりで退屈なのは嫌……闇に捕らわれてしまうから。あんな父には会いたくない」

 たまらなく寂しいと、闇の記憶を思い出す。
 父の死の記憶、雪の中で泣き続けた自分の姿、ひとりになると考えないようにしてもその場面が思い浮かぶ。それを打ち消す為に、まるで子供のように興味をそそる何かを探し続けるのだった。
 月華は、筝の琴を弾き始めた。
 このまま座っていたら悲しい記憶に捕らわれてしまうのが怖かった。
 何かしていないと闇に引きずり込まれてしまう、それは月華なりの戦いだった。
 大切な父との記憶、いつでも考えていたいのに、考えると泣き叫びたくなるあの日を思い出す。思い出したくないのに噴出す過去を封じる術は、考えない事だった。
 ひとつ弦をはじく。
 響きわたる音は、美しい音色に変わった。溜息を吐き、気持ちを整えるとそのまま弾き始めた。
 ひとつひとつの音に、悲しみと寂しさが噴出す。それは、決して人に語らない月華の心の奥を表しているようだった。

「安里達は好き……でも見たことのない人たちと一緒、私を特別扱いする」

 筝の琴の上で手を動かしながらぽつりと呟いた。
 たくさんの人の中にいても、一人でいるような感覚が残るのはそのためだった。
 「天命を受けた少女」それが自分の存在価値なのだと子供ながらにずっと思っていた。
 天命を受けなければ、誰も自分を振り返らない。
 両親もなく、生活の糧もない自分を誰が受け入れるだろうか。
 何ひとつ不自由なく豊かに暮せるのも、自分を称える声があるのも、天命のおかげだった。
 筝の琴をはじいた手を一瞬止めると、廊下を行き交う足音を耳にする。忙しそうに働く女房達の、楽しげに交わす会話が聞こえてきた。

「私だけ、独りね」

 力なく溜息を吐くと、また指で弦をはじいた。
 月華は思った「私は誰だろう」と。
 人々は言う、この京を救ったのは自分だと。
 美しく、眩いほどの姫、まるで「竹取物語」のかぐや姫のようだと称える。
 噂だけが広がって、一度も見たことがないのに天命を受けた姫を知らないものはいない。
 次第に大きくなっていく噂、女としての栄華を極める未来。
 月華にとっては疎ましいものでしかなかった。
 この生活を支えているのは天命のおかげと思いつつも、天命など下らなければ良かったとさえ思う。嘘で固めた自分の生活がたまらなく嫌になることがあるのだ。
 今が嫌いなわけではない、捨てられるほど強くもない、しかし時々すべてを投げ捨てて、ただの月華になりたいと思うことがあった。
 それは、憧れだったのかもしれない。
 普通の人として生きる世界が、月華にはとても美しく見えた。

「私は天の使い?普通の人間よ」

 若菜達から自分の噂を聞くと、それが誰のことなのか分からない。
 創り上げられた自分の姿に、怖くなった。
 何を自分に求めているのだろう、自分は普通の人間なのに。何の力もない、人々の望む自分になれないことが苦しかった。

「駄目ね、今日の私は暗いほうにばかり考えてしまう」

 琴から離れると膝を抱えてうずくまった。

「卑屈になったら駄目。私は人に幸せを与えられる人になるの。この京に住む人がいつも笑顔でいられるような京であるために。何かするわけではない、することはひとつ、秋雅様と結婚すればいいだけ……深く考えては駄目」

 自分に言い聞かせる。
 開放された自由な自分を思い浮かべるのは、罪人であると言い聞かせる。
 考える事はない、道は決まっている。
 月華が思考の道に迷っても、必ずもとの道に戻ってくる。それは父の残した記憶の言葉があったから。
 「皆を幸せに出来る姫になって欲しい」それが支えだった。
 父が望むのならそうなろう。
 それが、自分が生まれてきた意味なのだから。

「人は生まれてきた意味がある……私は京を守る契約の為に生まれてきた。それが私の存在している意味。そのためだけに生きればいい」

 その顔は、子供じみた表情を浮かべる月華の顔ではなかった。
 月華は、大人になろうとしていた。
 思い悩んでいる自分は誰にも見せない。明るく元気で心優しい姫、正に天命を受けるような姫を創り上げ、無意識のうちに演じていた。
 人から愛されたい、と寂しさの中に生きるもう一人の自分を隠しながら。
 月華の中にいくつもの感情がうごめきあう。
 どれが本当の自分で、どれが自分の求める姿なのか、月華自身まだ分かっていなかった。
 ただ、天命から逃れる事が出来ないとだけ強く感じていた。
 脇息にもたれ溜息を吐く。

「ああ、暇だな。楽しい事はないかしら」

 暗く沈んだ、淀んだ自分をまた、天命を受けた姫へと戻してくれるくらい楽しく、笑える瞬間が欲しかった。
 満月まではまだしばし時がある。
 月華はここを出るまで、楽しめる何かを探し続ける。
 だらりと体をたれ、また溜息をした。その表情は寂しさと悲しさに満ち溢れた子供の表情だった。

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