第一章 呪われた時代

 第一話 生まれてきた命 

   <小説>   

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  ―― 時は平安。

 月は天高く上り、雲ひとつない闇夜に優しく儚い光を落としていた。
 美しい光を浴びた平安京は、ひっそりと寝静まっている。
 数年前なら月をめで、酒を酌み交わし、盛大な酒宴を開いていたに違いない。
 しかし、今の平安京にそんな賑わいは存在しない。恐ろしいほどの静寂がそこにあった。
 誰もが言った『呪われた時代』と。
 煌びやかな貴族達の京。そんな美しい姿は消えうせ、残されたのは魑魅魍魎が通り過ぎていったような寂れた京だった。

 内裏から少し離れた場所に、源幸成《みなもとゆきなり》という男が住んでいた。
 それほど大きな屋敷ではなかったが、手入れの行き届いた美しい庭が月の光で闇に見浮かび上がっている。
 その奥に、寝殿造りの屋敷があった。
 幸成は心優しい男で、人からの信頼も厚い。身分はそれほど高くはなかったが、仕事が出来る男だったため出世は早く、官位も人より高い位置に付いていた。
 けれど、幸成は体の弱い男だった。
 働いている時も体調を崩す事がよくあったが、ここ半年、状態が悪化し体が思うように動かなくなった。
 ついには寝たきりになってしまったため、職を辞して今は屋敷に閉じこもり、ほとんど外に出ることはない。
 大好きだった美しい平安京は失われ、生きる糧だった仕事は奪われ、幸成は生きる光を失った。色白の顔はさらに青白くなり、美しく整った顔は儚げというよりは病的。漆黒の闇のような瞳は虚ろで生気がなかった。
 もう、死を待っているだけ。周りの者たちは皆そう思って心を痛めていた。
 誰も、その心を救う事が出来なかった。幸成が愛する妻でさえ、彼の心に生まれた闇を消し去る事は出来なかった。
 そんな幸成を救ったのは、ひとつの命。幸成のただ一人の妻、葵の中に芽生えた子供の存在だった。

「この子が生まれてくるまでは……この子をこの腕に抱くまでは、死ぬことは出来ない」

 それが、幸成の口癖になった。
 まだ死ぬわけには行かない。強い希望が幸成を支えたのだ。
 いつもは寝静まって静かな夜の屋敷は、珍しくざわざわと賑わっていた。
 緊迫した空気が張り詰めて、あちらこちらで明かりが灯されている。
 昼間のように明るい屋敷の中で一際目立つのは真っ暗に光を失った部屋、そこに幸成はいた。
 まるで何かに取り付かれたように、部屋の中を行ったり来たり歩き回っている。
 開けられた御簾からは、微かに冷たい風が舞い込んできた。
 落ち着かない幸成を見て、側に控えていた男が眉をひそめると立ち上がる。そして、御簾に手をかけた。

「惟高《ただたか》、開けておいておくれ」
「何を申されます。もう秋風です、お体に触ります。早く床に入りお休み下さい」
「このような日に寝てなどいられない。御簾を閉めてしまったら些細な変化も気付かないではないか」
「お生まれになったら呼びに来てくれます。幸成様はどうかお休みになって下さい」
「何度も言わせないでおくれ、寝てなどいられないと言っているではないか」

 惟高の生真面目で隙のない話し方にも負けずに、幸成は抵抗した。珍しく睨みつけると、また落ち着かずにあたりをうろついていた。
 惟高に明かりを消され、用意された床に入るように言われたが寝付けるはずもなく、騒ぎはないかと御簾を押し上げ、産声はまだかと離れた北の対を覗き見る。
 遠くで聞こえる足音に敏感に反応しては、惟高の冷たい視線を感じるのだった。

「少し落ち着いてください」

 寝させるのを諦めた惟高は、仕方なく言葉を変えた。

「落ち着いてなどいられない。私の子が生まれるのだよ」
「分かっております。他の男の子供が生まれる時にこんなに落ち着かない男がいるはずがありません」
「惟高、出産は危険ではないか?」
「幸成様……」

 心配そうに言葉を漏らす幸成に、半ば呆れたように溜息を吐いた。

「葵様はどう見ても幸成様よりもお元気ですし、薬子も何事もなく終えられると申していたではありませんか」
「それはそうなのだが……祈祷師たちも呼んだ方が良かっただろうか」
「誰かに恨まれていらっしゃるのですか」
「そのようなことは……ないと思う」

 小さく呟くように言うと、大人しく脇息の近くに座った。

「なら大丈夫です。大抵、出産時の呪いの類は女の怨念と決まっております。幸成様は色々な姫の元へ通う事もなく、葵様一筋でございます。まあ、ここが身分の高い皇族のような家柄で、政権争い、跡目争いがからんでくると話は別ですが、そのようなことも関係のないことですし、心悩ませるだけ無駄でございます」

 惟高は嫌味を含めて早口で言葉を浴びせた。
 幸成は顔をしかめると、小さく息を吐き、脇息にもたれかかった。

「大人しくしているから、嫌味は止めてくれ」
「お分かりでしたらいいのです」

 惟高はあからさまに笑顔を浮かべて、薬湯の入った椀を差し出すと、幸成は嫌々ながらも苦い液体を飲み込んだ。

「葵に何もないといいが……」

 薬湯を飲みほすと、急に顔を曇らせて呟いた。

「大丈夫でございます」

 どこから自信が来るのか、惟高は言い切った。その発言に、幸成は惟高の目を真っ直ぐ見ると悲しく微笑を浮かべた。

「私は、いつどうなるか分からない。この家も生まれてくる子供も守ってはいけない。葵まで失っては子供が不憫だ」
「幸成様!」
「お前の言いたい事は、分かっている。強く生きたいし、長く生きていたいと思っている。しかし、こればかりは私の意志ではどうにもならない」
「…………」

 惟高は、「大丈夫です」と言おうとしたが言えなかった。幸成の体調が良くならないことを知っていたからだ。
 決して長くは生きられない。
 それは、変えられない事実として受け止めなくてはならない。

「惟高、もし私に何かあったら皆を頼む……幸せに暮せるように導いてあげて欲しい」
「分かりました。出来る限りのことはさせていただきます。できれば、そうしなくていいようにがんばって下さい」
「お前になら託して逝ける」

 重たい沈黙がしばらく続いた。
 静まり返った幸成の部屋にも、遠くで女房達の足早に走る音が聞こえてきた。
 惟高は幸成の変わりに北の対に目をやるが、見たところで何が起きているのか伺う事は出来ない。
 視線を上に向けた瞳に飛び込んできたのは満月の月だった。

「幸成様……この時代に生まれて、子供は幸せになれるでしょうか」

 月を見上げたまま惟高は呟いた。できれば聞こえて欲しくないと言うくらいに小さな声だった。

「呪われた時代……」

 幸成は、溜息混じりにその言葉を漏らすと男たちの顔に暗雲が立ち込めた。立ち上がり、惟高の隣で月を見上げた幸成は苦しそうに言葉を続けた。

「日照りが続き、地が枯れた。雨が降ったと思えば止むことはなく、地が腐る。食べ物は失われ、えたいの知れない病魔が京を襲う……いくつもの大切な命が消え去った。呪われた時代と言わずになんと言う」
「幸成様のご病気も、呪いの影響でしょうか?」

 幸成は顔を横に振り、その場に座り柱に寄りかかった。瞳は月から放さない。

「私の体はもともと悪い……呪いのせいと言うわけではないだろう」
「どうなってしまうのでしょう、平安京は」

 惟高は、消した明かりをつけながら言った。
 急に明るくなった部屋に目がくらむ。幸成は惟高を振り返って首を振る。

「私たちには何も出来ない。主上がきっと御救い下さる。あの御方は天の声が聞ける。天がこのような事態を放って置かれるはずがない」

 幸成は笑って見せた。
 幸成の優しい微笑みに、惟高は不思議と主上が本当に何とかしてくれると思えた。
 他の誰が言っても信じなかっただろう。幸成が言ったからこそ、それが現実になるのではないかと信じられた。
 幸成の微笑には魔力がある。説得力のある発言ではなくとも、その表情に納得してしまう。彼の持っている空気そのものが優しく暖かく、争いを嫌うように温和だったからだろう。
 それは、幸成の持っている特質だった。

「きっとまた、美しい京がやって来る。私はそう信じている。だってそうだろう、空ではあんなに月が美しく輝いている。その光を浴びるこの大地が、不幸であるはずがない」

 幸成は再び月を見上げると、その月に願う。

「どうか、我が子をお守り下さい。幸せを与えて下さい」

 願いはひとつ、生まれて来る子が幸せになること。
 他には何も望まない。儚げに光を放つ月が一瞬強い光を放ったような気がした。ただ、それは一瞬の出来事で、人の目には写らなかった。
 天は空にいる。
 ひとりの神は、月から私たちを見守っている、幸成はそう信じていた。
 幸成は、月がとても好きだった。
 儚げな光も、優しく闇を照らす不思議な空気も、幸成にとっては心の安らぎを与えてくれるものだった。
 ふと苦しみに目覚めた夜、暗闇の中に浮かぶ月の光に何度救われただろう。
 孤独な闇は、不安をあおる。死の入り口に招かれる恐怖から救い出してくれる。それが月の光だった。

「月は、私の味方だ」

 小さく呟いた顔には、優しい微笑が浮かんだ。
 幸成はふと耳に入り込んできた音に体を起こした。
 今まで聞いたこともない音だった。
 惟高を振り返る目が縋るように見開く。戸惑いと驚き、幸成はあからさまにうろたえていた。
 大きな足音が響いてきた。その雑音は、幸成の耳に段々大きく響く。

「幸成様、お生まれになりました」

 飛び込んできたのは、葵付きの安里《あさと》と言う女房だった。めったに取り乱す事もなく落ち着いている安里も、喜びのあまり叫んだ。

「ほ……本当か」
「はい。産声がこちらにも届いております」
「それで、男か女か?」
「姫君でございます。私、何人もの生まれたばかりの赤子を見てまいりましたが、こんなにかわいらしい赤子は始めて見ました」
「おお、姫か…そのようにかわいいのか」

 耳に入る産声を目指して、幸成は駆け出した。
 「走らないで下さい」と言う惟高の声などまるで聞こえなかった。
 誰の声も聞こえない。生まれた姫の産声だけが幸成に届いた。
 明かりが付いた北の対に入り込む、几帳で中までは見えなかった。それほど走っていないのに、微かに息が乱れていた。

「幸成様、おめでとうございます」

 幸成を見つけたひとりの女房は、満面の笑みで言う。

「葵は?姫にも会えるか?」
「はい、どうぞ中にお入りください」

 幸成は、震える手を握り締めて、奥まで進んだ。今まで感じた事のないような緊張感が体に走る。

「葵……」
「幸成様……」

 ぐったりと横になっている葵は、嬉しそうに微笑んだ。

「ご苦労だったね」
「抱いて差上げて下さい」

 葵の隣で泣き疲れ、静に眠っている自分の子供を見つめた。
 まるで壊れ物に触るかのように恐る恐る抱き上げる。抱き上げた腕に感じる温もりと、重さに幸成は抑えきれない喜びを感じた。
 噴出してくる喜びは、言葉にはならず、知らぬ間に頬に熱い筋が生まれた。

「幸成様……」
「こんなに幸せを感じたのは、君と結婚した時以来だ」
「まあ、お上手です事。私と結婚しても涙は流さなかったではないですか」

 葵は、次から次へとこぼれる幸成の涙に手を伸ばした。
 驚きもあった、しかし、それ以上に幸成の心にある喜びを感じて嬉しかった。

「この涙は……」

 自分で止められない涙の理由は、いろいろあった。喜びと嬉しさ、感動。そして、悲しみの涙。

「名前はどうされますか?」

 少し迷ってから微笑みながら言う。

「月華《つきか》ではどうだろう……今日は月の美しい満月の夜だからね」
「素敵な名前です」

 ふと、葵は口を閉ざし、何かを思いたったように幸成を見上げた。

「かぐや姫のように月に帰ったりしませんよね」

 竹取物語が頭に浮かんだのか、葵は不安そうに幸成に問いかける。幸成は笑い、葵の頬に触れた。

「絵巻の見過ぎではないか?きっと、月が見守って下さる……」

 優しい笑みの裏側に、悲しい瞳を隠していた。
 幸成は「私の変わりに」という言葉を飲み込んだ。
 しかし、葵も近くに控えていた惟高も、周りにいる女房達も飲み込んだ言葉があることを感じとっていた。
 日に日に細く弱々しくなっていく幸成を見て、死が近いことを感じとる。
 幸成が一番それを理解していただろう。
 重たくなる体、苦しいまでの咳、高い体温、止まらない指の震え。体の変調が幸成に言う「もう長くはない」と。
 黒い影が語りかける、「こっちへおいで」と。
「死ぬわけには行かない。まだ、死ぬことは出来ない」幸成は反抗し叫んだ。
 子供を見るまでは、この腕に抱くまでは、と言う強い思いが彼を支えていた。

 ―― 死は近い。

 しかし、この体が動かない屍となるまで守り続けたいと、娘の為に生きたいと、強く願った。
 例え大人になる月華の姿を見ることが出来なくても、月華の記憶に父親の温もりが残る事を夢見ていた。
 できれば、それくらい大きくなるまで生きていたい。
 幸せに笑い、自分のところへ駆け寄ってくる月華を見てみたい。
 淡い夢は幸成を励まし続けた。

 月華は、深い眠りの中。
 生まれたばかりの赤子は、父と母の温もりの中にいる。自分の身に何が起きるのかも知らずに、静かに眠り続けていた。

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