第四話  過去の記憶と未来の誓い

   <小説>   

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 そこは、美しい彫刻をあしらった扉の前だった。
 閉じられた扉に張り付くように、幼い少女が立ち尽くしている。
 緩やかな金髪は三つ編みにされ、床につくほど長い真っ白な寝巻のせにたれている。覗き見えるほどの指先は、ぎゅっと握られ血の気を感じない。
 少女は静かに扉を開けると、明るく広い部屋に入っていった。
 とても立派な部屋だった。

「お父様」
「マリア、どうしたのだ、こんな時間に」
「眠れないのならついていようか?」
「眠れないわけじゃないわ、お兄様。お父様、私のためなら止めて下さい」

 急に、その場の空気が凍りついた。
 マリアの視線の先には王座に座る父と、その隣に静かに座っている母、すぐ隣にまだ年若い男が一人、マリアの兄である。そして、周りに数人の男たちがいた。側近といわれる王の片腕たちである。
 重々しい雰囲気の場所に、まだ幼いマリアだけが異様な感じがした。

「何のことだい?」
「ラバルを裏切ることです」
「なっ!」

 幼い少女の口から出るとは思えないくらい、しっかりとした口調だった。 何も知らない子供のはずのマリアはすべてを知っているようだった。
 まっすぐと前を見つめる瞳には幼さを感じない、大人の目をしている。
 驚きに満ちた男たちの顔、心配そうな視線を送る母の姿もそこにあった。

「何を言っているのです」

 微笑む母の顔が引きつっている。
 母の優しい声にもマリアはひるまなかった。

「このままでは、この国が滅びてしまう」

 ぎょっとし、息を呑む音がする。
 マリアの一言は、部屋を更なる静けさへと導いていった。

「マリア」
「ギムリは、私がほしいのでしょ?私が行けばすむことです。ギムリは最初からこの国を裏切るつもりでいる。ルレーヴァに未来はない。私さえ行けばこのまま平和が続く。ラバルとの仲を断ち切ってはいけないの……」
「マリア!」
「ラバルを裏切るのは止めて下さい。ラバルを裏切れば……すべて終わってしまう。ギムリを信じてはだめです、お父様」
「マリアには見えているのか?」

 小さく頷いた。

「ギムリは、その力がほしいのだな」
「こんな力いらない……ほしいというのならあげるのに……」
「マリア、私たちはマリアが大切なんだよ。たとえラバルを裏切ることになっても、そのせいでこの国が滅びることになっても、マリアを渡して救われるよりずっといい」
「お兄様は、私一人の命がこの国に生きるたくさんの命より大切だというのですか?」
「それは……」
「家族というのはそういうものです」
「それでは王ではありません、お父様」
「マリア!」

 怒ったわけではないが、厳しい顔へと変わり、幼い娘を制す。
 それが、愛情だった。
 マリアは既にこれから先に起こる未来に対して、自らを責めていた。
 それでも娘を捨て去ることはできないほど、王は娘を愛していた。
 王失格だと言われても、それは変わらなかっただろう。

「私は、お前だけのためにラバルを裏切るわけではない。ギムリは私たちが裏切らなければこの国のものたちを皆殺しにするだろう。ラバルを裏切ればラバルが攻めて来るかもしれない。それでも、私はラバル王を信じているのだ」
「何をですか?」
「ラバル王は、この国を滅ぼしたりはしないと。責めは私ひとりでいい……」

 王が望んでいたものは自らの命を捨て、娘を守るためにラバルを裏切ることだった。
 ラバル王なら、すべての責任を自分だけにかせるだろうと信じていた。
 他の者たちは助けてくれる。
 この国は滅びることはない。
 ギムリはそうは行かないことを知っていた。ラバルを信じて、そう決めたのだ。
 しかし、マリアの見た未来はそうならないことを悟っていた。

「お父様、ギムリはそこまで……」
「マリア!これは王である私が決めたことだ」
「…………」

 王は、すべての真相を感じ取れるほどマリアの力が強いとは思わなかった。
 そして、マリア自身、自分の力を知るほど大人ではなかった。
 ただ見える映像を伝えたかっただけ。
 その悲劇を伝え、自分ひとりの犠牲ですむのならと幼いながらに思ったのだ。
 自分も、王の娘。
 幼くともそれくらいの覚悟はできている。そう思っていてもうまく言葉にはできなかった。
 そして、父にはむかうことができないことも知っていた。
 王は既に決断していた、その決断を覆すことはできない。

「お前は知らずにいなさい。こんな世界は知らなくていい」

 満月の夜だった。
 冬が来る前のほんの少しの合間、雪にも氷にも覆われていない緑の季節。
 暖かいとは言えず、冷たい風が吹き抜けてゆく。
 王城は森に囲まれている。
 冬季は樹氷の木となり、いてつく季節の美しい景色の一部になる。今は葉を散らした枯れ木のようで、茶色い樹皮を外にまとっていた。
 美しい月が寂しげに浮いている。
 いつも変わらない優しい光を放つ月は、時折通り過ぎてゆく雲に見え隠れしていた。
 物静かな夜のはずなのに、ざわざわと森が騒ぐ。葉がすれなど聞こえない、木々の合間をぬける冷たい風の音、不気味な音だった。
 眠りについていたマリアは、ドアを開ける音に飛び起きた。

「マリア、早く外へ!」
「お兄様?」
「早く!!」

 兄の手は、マリアを引っ張る。
 眠りに深くついていたためか、意識が朦朧としていて事態が飲み込めなかったが、ふと浮かぶ父と母の姿にぞっとした。
 両親を取り囲む黒い影……。

「ラバルが来た」
「いいえ、あればギムリ」
「そんなはずはない、確かにラバルの紋だった」
「でも、ギムリ……」
「そんなことは関係ない、とにかく逃げるんだ」
「お父様や、お母様は?」
「後で行く、マリアだけでも先に行くんだ」

 人目を盗み、城をぬけて深い森へ向かって走る。
 誰も知らない抜け道をたどる二つの影。
 マリアは兄に手を引かれ、引きずられるように走らされていた。
 その瞳には涙が光る。

「この力さえなければ」
「マリア、自分を責めるな。それはイリス様がマリアに与えた力なのだから」

 聞こえる追っ手の足音に、兄は振り返り立ち止まった。

「マリア、このまま森を抜けなさい。ひとりで行けるね。そしてイシュレスへ行くのだ」
「いや!お兄様と一緒じゃなきゃ……」
「先に行きなさい。私があいつらを食い止める。後から必ず行くから、森の外で待っていなさい」
「お兄様!」
「いいから行け!マリア、お前の命は私たちが守る。そのためにこの道を選んだんだ。マリアはこの世に必要なのだ、忘れてはいけない、自分をせめてもいけない。生きるんだ」

 兄の眼にも真剣さんが映っていた。
 マリアは走った。
 振り返り兄がそこにいるのを確認しながら走った。
 「必ず行くから」その言葉が嘘であると、他の誰よりもマリアが知っていた。
 でも、変えることのできない自分に涙があふれた。
 未来を見る力が在るのに、それを変える力はない。
 生まれてさえ来なければ、こんなことにはならなかったのに。
 私さえいなければ、こんな力さえなければ……マリアの悲痛な叫びだった。

「マリア!幸せになれ」

 最後に映った兄は、優しく微笑んだ姿だった。
 大丈夫必ず行くから、伝わってくる兄の思い。必ず守るからと響いてくる兄の叫び。
 どうか助けてください。
 マリアは祈った、願った。
 私の家族を、私の生まれた国をどうか助けてください。
 そのためならばどんなことでもします。
 命をささげてもいい。
 だから助けてください。
 森は真っ暗で、恐ろしいほど音がない。
 聞こえるのは自分の呼吸の音だけだった。
 恐ろしくって、何度も転び、泥だらけになった。足にも痛々しい傷がある。それでも走った。
 まるで月から逃れるように、月を背に走った。
 突然聞こえてきたのは蹄の音。
 勢いを増して追いかけてくる。
 人の気配に振り返ったマリアの目には、巨大な人影が入り込む。
 捕まれる強い力、投げつけられ感じた痛み。
 月の光に反射した剣が振り下ろされる。
 瞳を閉じたマリアは声すら出なかった。
 殺されると思った。
 ここで死ぬのだと思った……。
 
 大きな音がした。
 人が倒れるような、ずしんと響く音。
 瞳を開けたマリアは、傍らにたたずむ男の姿と、その足元に横たわる巨大な影を見た。
 あたりに広がる黒い水。
 それが血であると判断するまで時間がかかった。
 月の光を浴びたその男は、通り過ぎてゆく風に漆黒の髪を揺らしていた。

「いやああああ!」

 張り裂けてしまいそうなほど、悲痛な叫びが響いた。

「どうしたのです!」

 がたがたと震えるマリアは、自分の部屋のベッドから飛び起きた。
 体中から汗が零れ落ちる。
 それなのに体は冷え切り、顔色は真っ青だった。
 悲鳴を聞いて、駆けつけたのは近くにいたハリスだった。
 ハリスは、目の前にいるマリアが人形のように感じた。
 ただ生きているだけの人形。
 大きく体を震わせ、息をしているが、そこにいるような気がしない。どこを見ているわけでもなく、正気のない瞳から零れ落ちていく涙は頬をぬらしていた。

「マリア……」

 側に腰掛けると、優しく抱きしめた。

「思い出した……私が……私が殺した。私のせいで滅びた……」

 小さくつぶやくと、そのまま気を失った。

「ハリス」
「ユリア様……」
「やはり扉が開かれましたね。イリス様はひどいことをなさいます」
「乗り越えられるでしょうか?」
「乗り越えなくてはなりません。この苦しみから……自らが望んだこと……いいえ、望まなくともいずれはこの時が来たでしょう。マリアは、運命の子」
「このままでは壊れてしまいます」
「必要なのは深い愛情。大丈夫、マリアは人を愛せる子です。きっと立ち直って、自らを受け入れ、自らを許し、世界を愛する日がきます」

 ハリスは、マリアを寝かせると夜明けまで手を握って祈った。

 マリアはそのまま数日眠ったままだった。
 まるで目覚めることを嫌がっているように、目覚めない。
 だから、ギルバートの元へ使者が来たことも、国に戻らなくてはならなくなったことも、何も知らなかった。
 そして、彼がとった驚くべき行動にも気づくはずがなかった。
 ギルバートは、マリアに会うために神殿に侵入していた。
 まさに、今の出来事である。
 広い神殿内を彷徨い歩く。
 迷宮の中のような神殿に困り果てていた。
 誰にも会わずにどうやってマリアの元へ行く?
 どこを探していいのかすらわからない。
 神殿に入ってから、初めて無謀なことをしていると、彼は気づいた。
 人の気配がすると、近くの柱に隠れる。緊張感が張り詰めた空気の中にあった。
 ひとつのことに集中していたせいだろうか、ギルバートは近づいてくる者がいることにまったく気づかなかった。

「マリアに会いに来たのですか?」

 ギルバートの体は、背筋から凍るような寒さを感じた。
 反射的に振り返る。
 そこには、少し年を取った女が立っていた。

「誰だ?」
「ここでは貴方様が侵入者です」

 そういって女は微笑んだ。
 無意識のうちにマントに隠れた剣に手が行った。

「ユリアと申します。ここの一番の古株です」

 われに返り、剣から手を離したのは、ユリアという名前には聞き覚えがあったからだ。
 マリアの口から何度か聴いた尊敬する人の名前、その中にユリアというイシュレーの長がいたことを思い出す。

「マリアに会いたいですか?」
「そのために来た」
「マリアに会ってどうするのです?」
「連れて行きたい、わが国ラバルへ」
「ラバルへ?マリアがどこの国の人間かわかっていらっしゃるのでしょう」
「マリアが誰かなんて関係ない。マリアはマリアだ」
「では、マリアがルレーヴァの者でも関係ないとおっしゃるのですか」
「もちろん」
「自分の国を裏切った国の娘でもですか」
「関係ない」

 ギルバートは、凛とした態度を変えず、はっきりと答える。
 ユリアは、少しためらいがちに呟いた。

「あの方はなんと言っておられますか?」
「あの方?」
「シレス様です」
「シレス?シレスがどう関係しているのだ」

 突然出てきた意外な名前に、ギルバートは首をかしげる。

「あの方が、マリアをここへ連れてこられたのです」
「シレスが?どういうことだ!」
「ラバルの方は、ルレーヴァを今でも恨んでおられるのではないですか?」
「裏切ったのは事実だ……当然だと思う」
「真実を知っているのは、シレス様だけ。彼は何も語らなかったのですね」
「何が言いたい?」
「真実はいずれ知ることになるでしょう。今私が言えるのは、ルレーヴァはギムリに脅されて、ラバルを裏切った。マリアを救うために必要だったのです」
「マリア?」
「ルレーヴァはラバルにかけていた。ラバルなら裏切った自分たちを許さなくとも、民を助けてくれるだろうと。ギムリはすべてを皆殺しにする。だからギムリに加担した。しかし、ルレーヴァは滅びた。王家を殺したのはラバルのものでしょう。でも、ギムリはすべてを破壊した。最初からラバルの片腕であるルレーヴァを滅ぼすために持ちかけた話だったのです。マリアの力を欲したあの人たちは、マリアを絶対に王がわたさないことを知っていた。だから逃れられないように周りを固めていった」
「マリアの力?」
「今はもうほとんど残っていませんが、未来を見ることができたのです。今の私より強い力を持っていた。その力のせいでマリアはすべてを知ってしまった。そして、何もできないことを責めた。マリアはまだ幼かった。見える映像だけしか見ることができない。その裏にある複雑で醜い駆け引きなど気づかなかった。マリアのせいで滅びたわけではありません。でも、マリアはそう思い込んでしまった」

 予想もしなかった出来事に、うろたえていた。

「シレスが連れてきたって?」
「シレス様は、罪を犯した。真実を言わずに隠したのです。結果は何も変わらなかったでしょう。でも、ラバル王のルレーヴァに対する見方は、形を変えていたかもしれません」
「シレスが……」
「国へ戻る途中、マリアを助けた。本当は殺すつもりだったようです。マリアが誰か知っていたのですから、当然です。でも、殺せなかった。捨てることもできなかった彼は、マリアをイシュレスに連れてきたのです。ラバルもギムリもマリアを狙っていた。マリアを守れる場所はここしかなかったでしょう」
「マリアは、もしかして……」
「王の娘です。それを知っても、貴方はマリアに会いますか?」
「関係ないと言っている。マリアはマリアだ」
「そうですか、ではマリアの心を救っていただけますか?」
「どういうことだ?」
「マリアは苦しんでいる。マリアはマリア……あの子はそんなふうには割り切れません。思い出した過去にとらわれてしまった。その心を救うのは大変なこと。マリアを救えますか?」
「マリアと共に居られるのなら」

 その言葉に一瞬の迷いもなかった。深い緑色の瞳は語る。マリアより大切な者はない、強い愛情だった。
 その力は、ユリアをも圧倒させた。

「わかりました、その言葉を信じます。礼拝堂へ……マリアはそこへ行くでしょう」
「どうやって行けばいい?」
「その道をまっすぐ、そして外へ出ると見えるはずです」
「ありがとう」

 ギルバートは、言われるままに通路に姿を消して行った。

「マリアの心はそう簡単には行きません……かわいそうですが、今はまだ闇の中。あきらめればすべてが終わり、思い続ければまた違った道が開かれる。マリア、運命とはいくつもの道があるのです。でも、あの時のマリアには真実しか映らなかった。それほど苦しいものはなかったでしょう。苦しみから抜け出すことができるのは自分だけです」

 誰にも聞かれないユリアの独り言は、同じように未来を見れる者の心の声だった。

 礼拝堂にはすぐにたどり着いた。
 蝋燭に浮かび上がる石のイリス神が両手を広げて立っている。
 神聖な雰囲気が伝わってくる。ぞくぞくと震え上がるほど、外とは違う空気だった。
 本当にマリアが来るのかと疑う気持ちはあったが、他にどうすることもできなかった。
 それからまもなくして、扉が開く音がした。
 隠れることも忘れて振り返る。そこに居たのは紛れもなくマリアだった。
 顔色も悪く、数日前よりもやつれていて、今にも倒れてしまいそうなほど弱々しい。
 神殿の中だからだろうか、ベールはかぶっていなかった。少し乱れた髪がさらに儚さを際だ出せていた。
 マリアの瞳に突然、ギルバートが飛び込んできた。
 居るはずのない人。
 一瞬幻影かと思ったが、近寄ってくるギルバートは確かに本物だった。
 とっさに背を向けて扉に走った。ギルバートは追いかけて、扉をバンと押し付け、マリアの腕をつかむ。

「なぜ?なぜ逃げる」
「離してください……私を見ないで!」
「マリア、俺を見ろ」

 マリアの瞳は、決してギルバートを見ようとしなかった。

「いいえ、いいえ……」

 つかまれている両手を何とか振り切ろうとするが、ギルバートの力がそれを許さない。

「どうしたのだ」
「私は、ギルバート様に合うにふさわしくない者です」
「マリアが、ルレーヴァの人間で、私がラバルの人間だからか?」
「いいえ!私が罪人だからです」
「大体の話は先ほどユリア殿に聞いた。なぜ自分を責める。言ったではないか、俺の手は汚れては居ないと。神もお許しになると言ったではないか。マリアとどこが違うという」
「私の手は誰も救えません。ギルバート様とは違います。いいえ、救えるはずだったのに救おうとしなかったのです。皆、私のせいで死んでいった。殺したのは私ではありません。でも、私の存在がすべてを死へと導いたのです。私は呪われた子……イリスに愛されなかった子です」

 壊れてしまいそうなほど、震えていた。

「私はここに居ることすら許されません……私は自分を受け入れ、許し、愛すことなどできない」
「マリア!よく聞け。俺は国へ帰らなくてはならない。一緒に来てほしい」
「何を言っているのですか?」
「私と一緒にラバルへ」

 マリアはまっすぐ見つめるギルバートの瞳を、始めて見返した。
 真剣なまなざしがそこにある。
 少し前なら、このまなざしに胸をときめかせていただろうが、今はそんな風に思うことはできない。
 恋がしたいなんて、冗談でも言えない。

「私はイシュレー……一緒にいくことはできません。私はここで罪を償わなくてはなりません。自分を愛することができるその日まで」
「マリア!それが本心ではないとわかっている」
「本心です」
「いや、嘘だ。ただ自分が許せないだけだ。私を愛してはくれないか?私を必要と思ってはくれないか?イリス神よりも!」

 マリアは、冷静さを取り戻すようにひとつ息を吐いた。
 そして、閉じていた瞳を開けると、まっすぐとギルバートを見つめた。

「私は、ギルバート様を愛すことはありません。私が必要としているのはイリス神です」

 揺るぎない瞳は、真実を語っている。ギルバートの胸に、マリアの言葉は鋭い刃物のように突き刺さる。大きな喪失感が襲い、目の前が真っ暗になった。

「わかった……」

 手に入れられなかったものなど今までなかった。誰かを愛したこともなかった。初めて愛した、心からほしいと思った少女。
 その思いが相手に伝わらない。救うことすらできない。受けた衝撃は強かった。
 一度も振り返らずに外へ出て行った。
 ギルバートの姿が見えなくなっても、マリアはじっと一点を見つめていた。
 瞳にあふれる涙の粒。力が抜けて、床に座り込む。

「ごめんなさい……ギルバート様」

 激しい胸の痛みを感じながら、何度もつぶやいた。
 ギルバートを追いかけたいと足が言う。引き止めたいと思う。今のは嘘だと心が叫ぶ。
 でも、その力はなかった。
 暴れだす思いを覆い隠すだけの大きな闇が、マリアを支配していた。

 ―― 罪人……。

「私は自分が許せない。そのような人間が、誰かを愛せるはずがありません。私は幸せになってはならないのです。ここで、祈るのが一番なのです。私のしたことが許されるその日まで」

 この想いは、忘れなくてはならない。
 そして、イリスをもっと愛さなくてはならない。私の存在が少しでも認められる日が来ることを祈りながら。
 罪を償える日、その日が永遠に来なくても、その日のためにイシュレスへ来たのだ。
 マリアにとって過去は、自分を責めるための記憶でしかなかった。
 責めて、責めて、責めた。
 自分の存在すら呪った。
 空っぽになってしまったマリアの心を、闇が埋めてゆく。
 悲しみの涙は、絶望の世界へと追い立てる。
 そして、心に決めたのだ。この苦しみは皆の痛み。私はイシュレーになる、この犯した罪を償うためにも、立派なイシュレーになるのだ。
 イリスがそう望んだに違いない。
 ここで、祈り仕えるようにと、導いたのだ。

 月が空に現れた。
 今にも消えてしまいそうなほど細い月。光も弱々しい。

「ごめんなさい……ギルバート様はどうか、幸せに」

 その日を栄えに、マリアは変わった。
 皆に心配をかけないようにと、今まで以上に必死に働くようになった。
 微笑を常に保っている。
 それが返って痛々しかった。
 マリアの感覚は麻痺し、悲しいとも辛いとも思わなかった。ただ、ひたすら今を生きることだけを考えていた。
 ギルバートの面影を思い出さないように、イリス神に縋るのだった。

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