第三話  外の世界と水鏡

   <小説>   

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 マリアは嘘をつくのは初めてだった。
 何の変化もない生活に嘘など必要がない。
 だからだろうか、朝からどきどきと鼓動が早打っていた。
 些細な物音や、人の声に反応をして、びくびくする。
 ずっと行きたいと思っていた森の外、嬉しくて眠れないほどだった。
 イリス神への祈りにすら身が入らない、そんなことは初めてだった。

「マリア、何かいいことでもあったの?」
「いいえ、何も」

 二人だけの秘密というギルバートの言葉を守るのも難しかった。
 こんな些細なことに心をときめかせたり、楽しくなっている自分がいるとも思ってもいなかった。
 皆は家族と暮らしている時に味わっている普通のことなのだろう、そう思うと寂しくなった。
 毎日繰り返されるイシュレーとしての生活。
 マリアにはそれが当たり前の生活で、染み付いた習慣。ここではイシュレーとしての生活しかない。他の生き方を教えてくれる人もいない。
 だから、嘘は罪と知りながら、イシュレーではない時をすごしてみたかった。

「変なマリア」

 去ってゆく後姿を見ながら、一人のイシュレーが言った。

「あれは恋ね」
「まさか、私たちはイシュレーよ」
「でも、フレリア、ここへ来る前に恋くらいしてきたでしょ」
「それは……でも、イリスのほうが大切だと思ったからここへきたのよ」
「マリアはずっとここにいる。恋なんて知らずにね。きっと初めてのことだわ、わけもなく気になって仕方がない人が現れたのよ」
「それって」
「あの人しかいないでしょう」
「エリカ!あの人はだめよ」
「わかっているわ」
「あの人はラバルの人間よ、マリアはきっと苦しむことになる。あの子は誰よりも罪の意識に敏感なのよ」
「……誰でも同じよ。私たちはイシュレー、マリアの恋は実のらない」
「かわいそうだけど……乗り越えるしかないわね」
「あら、わからないわよ。マリアはまだイシュレーじゃないもの」
「それはそうだけど……マリア自身がイシュレーだと望んでいるうちは無理よ」

 うれしそうなマリアの姿を見て、イシュレーたちはささやきあった。
 マリアが誰かに恋をしていると言う噂だ。
 楽しい噂話ではあったが、その結末が悲しいものになることを知っているイシュレーたちは、手放しに喜べることではなかった。
 マリアには幸せになって欲しい。
 もし、イシュレーとして生きるより、愛する者との幸せな未来があるのなら誰も止めずに送り出すだろう。
 まだ成人していないマリアならその可能性もある。
 それが小さな可能性だとしても、ゼロではない。
 しかし、マリア自身が他の誰よりもイシュレーになることを望んでいることを皆知っていた。
 イシュレーになるため、大人になるために、必死にマリアはもがいている。
 それが過去を知ることへとつながっている。
 
「まだ、恋とは決まってないわ」
「恋よ、フレリア。マリアはまだ気づいていないと思うけど、あの人に惹かれているのは確かだわ」
「それなら、気づいてほしくないわ」
「そうね、悲しまないですむのなら」
「私は恋よりも、マリアには過去を思い出してもらいたくないわ」
「エリカ」
「きっとマリアは自分を責めるから」

 集まっていたイシュレーは、苦しみに満ちた表情を浮かべて、マリアを見送った。
 彼女たちは、マリアに過去を見せるのが怖かった。
 きっかけになりそうなラバルの男を、受け入れることもできない。
 マリアが心を開いた人だとわかっているが、複雑な心境だった。
 神殿の片隅で、3人のイシュレーもマリアを見つめていた。
 やはり張り詰めた空気がそこにはある。見るからに他のイシュレーとは違う雰囲気を持った人たちだった。

「ユリア様……」
「どうすることもできません。マリアは自分で道を歩き出したのです。それが普通のことです」
「しかし……」
「ハリス、ヘレン。マリアが自分で決めること、たとえその結果がどんなに辛いものとなったとしてもです」
「私たちにできることはないのでしょうか?」
「ただ見守っているだけ」
「そのようですね」

 ただ見守っているだけ。
 回っている運命を回せるのは、その人生を生きている本人だけ。
 どんなに力を持った人間でも、その流れを変えることはできない。

「でも、嘘はいけません」
「まあ、ヘレン。本当のことを言ったら、行かせなかったでしょう」
「当たり前です」
「ヘレン、マリアはまだイシュレーではありません。止めることはできませんよ。あの子は自由です。ただ、ここには自由なものがいないだけです。外へ連れて行ってくれるものも、普通の生活をさせてあげられる人間もおりません。かわいそうなことを、私たちはしてきたのかもしれませんね」
「でも、ここでしかマリアは……」
「その通りです。ここでなら生きていけるとあの者は思ったのでしょう。命が一番大切だと知っているものです」
「ユリア様の言う通りですが、男と二人で出かけるなど」
「ヘレンはこの中で一番マリアを心配しているようですね。ちょっと違った心配のようですが」
「ハリス!」

 図星を指され、ヘレンは怒鳴りつけて歩いて行った。ユリアもハリスも、その姿を見て笑っていた。

「どうか、マリアに光を」

 丘の下で、ギルバートは待っていた。
 笑顔で迎えられ、どきどきした。
 シレスにはどう言って出てきたのかと尋ねると、ギルバートは笑って「きっとばれている」と小さくつぶやいた。
 ギルバートは、マリアを抱き上げる。

「ギルバート様、後ろに乗せてください」

 恥ずかしさからマリアは言う。

「君は振り落とされそうだからだめだ」

 そう言って顔を覗き込む。その視線に胸が熱くなった。
 すぐ頭の上にギルバートの顔がある。手綱とギルバートに挟まれて、狭い空間が余計に狭く感じた。
 ギルバートの胸に顔をうずめながら、じっとしていた。聞こえる鼓動、伝わる温度、暖かい。

「マリア、何が見たい?」
「わからないです」
「わからない?」
「何があるのか、わからないのです」

 そういって見上げたマリアの瞳を見て、あまりの純粋さにギルバートはめまいを感じた。
 こんなに透明で、何にも汚されない人間がいるのか。
 純白を連想させるマリアの心。今の時代には失われた人間だと感じた
 。あのイシュレスという場で、イシュレーに育てられたからこそ、真っ白のまま生きていることができるのだ。
 外の世界を見せようとしている自分が悪魔のように思えてくる。
 そして、穢れない天使に触れる罪人になった気がして仕方がなかった。
 最初は、からかい半分でマリアを誘った。
 イシュレーへの興味と、落ち込んでいたマリアを少しでも元気付けられたらと思った。
 しかし、そんな風に思ったことすら罪に思えてきた。
 すべてに対してマリアは興味を降り注ぐ。
 すべてを知り、すべてを見つめたいと思う。遊び半分で外を目指していたわけではない。知りたい過去、そして世界。
 その真剣さと、まっすぐ差にギルバートは圧倒され、惹かれた。

「参ったな」
「?」
「綺麗すぎるよ、マリア」
「私がですか?」
「始めて見た時、その姿が綺麗だと思った。月の光を浴びた女神みたいだったからね。でも、マリアはその姿だけではなく、心が綺麗なのだ。ちょっと世間知らずなところも可愛い」
「ありがとうございます……でも、ギルバート様。世間知らずは余計です」
「ははっ!本当のことではないか」

 必死な抵抗の言葉も笑い飛ばされた。
 言われなれない言葉に、鼓動が早打つ。聞いたことのない甘い声に心が震える。平然とした態度をとらなくては、イシュレーらしくと頭で言い聞かせてみるが効果はあまりなかった。
 苦し紛れの言葉は、何の役にも立たない。
 焦っているマリアが可愛らしく、優しく微笑むと馬を速めた。見下ろすとさらに緊張を現したマリアの表情に、笑みが深くなった。

 森を抜け、街に入る。
 イシュレスの街とは違って、すべてが新鮮だった。
 行きかう人、売っている物、人々の賑わいすら、めったに見ることのできないものばかりだった。

「ギルバート様、活気があるってこういうことですか?」
「ここはまだ平和だからな」
「ここは?」
「知らないのか?この世で起きている戦いを」
「話には聞いています。助けを求めてやってくるものもイシュレスにはたくさんいます」
「でも知らない」
「誰も教えてはくれませんし、私は神殿から勝手に出ることは禁じられています」
「一日に何百、何千というものたちが、その手を血で汚している。命を落とすものもたくさんいる。この地も明日はどうなるかわからない」

 マリアの顔から笑顔が消えた。
 雑踏から逃れるように、静かな土手に二人は腰掛けた。そして、昼食をとる。
 マリアは、パンをちぎっていた手が止まったままだった。

「人が、人を殺す」
「……それが当然のようにおきている」
「なぜ?」
「些細なこと。国同士が争って領土を求める。少しでも良い地を求めて、領土を広げる。そして権力を手に入れようと、上へ上へと上りたがる。追いつくものを殺し、追い越そうと思うものと戦う。意見が合わなければ滅ぼしあうというわけだ。裏切り、裏切られ、腹を探り合う。この世にはたくさんの闇がある。だから、マリアのような人は俺には羨ましい」
「羨ましい?」
「俺にはそんな綺麗な生き方をすることができなかった。戦うものは嫌いか?人を殺すものを許せない?」
「?」
「俺の手はたくさんの血で穢れている。この手でたくさんの者達を切ってきた。そんな方法でしか国を導けない。間違っていると思うが、それしかないのだ……今の世は戦うことがすべてなのだ」
「許す?」
「私は人殺し、マリアはイリスに仕えるものだ。こんな罪人は嫌いだろう。怖いだろう。裁かれるべきだと思うだろう」

 寂しそうに空を見つめる瞳には、悔しさが映っていた。
 彼の置かれている立場、考え、思いと現実の違い。
 自分を責める。
 でも、他に道が見つからない。
 殺さなければ殺される。
 守らなければ、滅ぼされる。
 同じ場所をぐるぐると回りながら、出口にない場所をさまよい続ける。殺したくない、守りたいと思うのに、意思とは違った行動しか取れない自分が情けない。
 当たり前のことと割り切らなければ、戦えない。
 イリスに救われることがなくても手に握り締めた剣を放すはできなかった。
 誰かに許してもらいたかったのかもしれない。
 貴方は間違っていないといってほしかった。
 だから、心にしまった弱さをマリアに懺悔した。
 マリアは、ギルバートの手をとった。
 そして、微笑む。
 温かいその指先は戸惑いがちに頬に触れる。

「怖くなどありません。この手は私を守ってくださいました。奪う命もあれば、救う命もある。守られた命もあります。忘れないでください、人の命が一番大切だということ、この世に無駄な命などないのですから。祈ってください、時にその失った命の幸せを。ならばきっと、貴方様も救われます」

 ギルバートはマリアを、いきなり強く引っ張った。そして、その手で強く抱きしめた。

「ギルバート様?」
「少し、このままで」

 そっと、ギルバートの背中に手を回した。

「きっとイリス様もギルバート様の心を知ってらっしゃいます」

 暖かな午後、悲しみの中に幸せの風が吹いた。
 ギルバートの中にあった戦いへの苦しみがかすかに癒された。
 きっとマリアの心に触れたためだろう。
 イシュレーとはみなこうなのだろうか?
 罪人でも許す、心の深さが羨ましい。
 自分にはない何かを、思い出させてくれる。マリアのような優しさがほしかった。
 満たされる心、癒される自分がそこにいる。
 腕の中の少女を手放したくないという衝動が生まれる。その思いは確かに、愛情だった。

「ありがとう」

 極上の笑みを浮かべた。
 平静を装っていたが、自分の鼓動の音が大きな音を立てて、ギルバートに聞こえていないかびくびくしていた。
 ギルバートの腕の中、息苦しくなるほどの力が、マリアの中に眠っているものを呼び覚ます。
 誰もが持っている愛する心。
 まったく知らないようでいて、突然姿を現す。
 締め付けられるような胸の痛みの意味をマリアはまだ知らない。
 ギルバートを見る目が次第に熱を帯びていく。頭で理解するのではなく、心が感じ取る。
 恋なのだと……。
 イリスにイシュレーは恋をするという。イリスより大切な人はいない。
 マリアは自分に問いかけた。
 イリスを愛している?
 もちろんと刻座に答えるだろう。
 イリスより大切な者はいない?
 マリアはその問いにはっとなった。思い浮かぶのは、イリスではなく、抱きしめてくれている男の姿だった。。

 ―― 一番大切な人……ギルバート?

 不思議な感覚は、あってはならないことだった。
 あるはずがないと頭を振る。
 しかし、追い出そうとすれば追い出そうとするほど、よりいっそう自分の中にギルバートの存在が増えていく。
 どうしてしまったのだろうか?
 イリス神は絶対、自分はイシュレーになりたい。神に仕える者になりたいはずだ。
 なのどうしてギルバートが浮かぶのだろうか?
 ギルバートを思うと苦しかった。
 その痛みが恋だと悟ったが、悟るべきではないと後悔した。
 罪の意識もあった。
 でも、それ以上に自分でもわからない何かが否定するのだった。

 ―― 忘れるのよ、マリア。

 マリアは、胸にかけられたクロスを握り締め、祈った。自分はイシュレーなのだと言い聞かせて。

「湖が見てみたいです。ギルバート様」
「湖?」
「近くに湖があると聞いたことがあるのです。あの夢にも湖が出てくるのです」
「夢に?」
「はい」
「そんなに過去を思い出したい?シレスの言うように辛い過去かもしれない」
「怖いです。でも忘れたままではいけないと思うのです。私は知らないといけない」
「そうか、わかった。湖を見て思い出すかわからないが、きっかけはどこにあるかわからないからな。帰り道に湖がある、そこによっていこう。私もあそこには行ったことがない。今からならちょうど夕焼けが綺麗に反射して、美しいと思うぞ」

 街を抜けると馬を少し早く走らせた。

「ルレーヴァを知っていらっしゃいますか?」
「……あまり知らない。私が小さいころに滅びてしまったからな。ちょうどシレスが私につくようになったのもそのころだ」
「どれくらい一緒なのです?」
「六年位か。最初は家庭教師、今は側近。勉強も、剣術も、何でもできるやつだ。美しい容姿と厳しい口調。いつも一緒にいるがわからないことも多い。時々何を考えているのかわからない。私はまだ子供で、シレスは大人なのだと思い知らされる」
「まあ」
「シレスは父のお気に入りなのだ」

 シレスに向けられた強い視線が忘れられない。
 初めて会った人に向けられるものではないような気がする。何か知っていることがあるのではないかと思わずにいられない。
 シレスの、すべてを見透かすような緑色の瞳が怖かった。

「着いたよ」

 突然降ってきた声にわれに返った。
 馬から下りたマリアの瞳に映ったのは、見てみたいと思っていた湖だった。
 湖水は透明で、鏡のようにそこのあるものを映し出す。
 太陽の光を反射して、まばゆい光の粒をちりばめる。
 少し怖いくらいに美しい。
 イシュレスが近いためか、どこか神秘的な空間を作り上げていた。
 遠くの空がオレンジ色に染まり、空の色を飲み込んだ湖を美しい彩に染め上げる。
 この世の光景とは思えないほど、美しく魅了する。

「どうした?」
「あまりにも美しくって、言葉を話すのすらもったいない」

 ギルバートは嬉しそうにマリアを見つめて、笑った。
 喜びに満ちたマリアの顔のほうが美しく見えた。
 マリアは、静かに湖に歩み寄ると、膝をつきためらいがちに水に触れた。波紋ができ、見ている自分の姿を揺らす。

 スギン。

 マリアは頭に矢で射抜かれたような痛みを感じた。
 同時に輝いていたはずの湖の色が消え、もうひとつの影が現れる。
 悲しみに満ちた表情を浮かべる、夢の中の少女。
 モノクロの世界は次々と場面を展開して、マリアを激しく揺さぶった。いつもよりゆっくりと人が通り過ぎてゆく。

 ―― 何?誰?……いやっ!

 声が響く。

 ―― いや、止めて。見たくないの……。

 悲痛な叫び声が聞こえる。
 湖に映るる少女の顔から、悲しみすら消えた。
 何も感じない人形へと変わってゆく。
 ふと姿を現したのは黒い髪の一人の男。今まで登場することのなかった、新しい人物。
 どこかで見たような姿……。

「シレス様?」

 割れるような頭の痛みを感じた。
 見開いた目に映ったのは、山のように積み上げられた死体の山。あたりは血の海になっている。その中心に自分が立っている。

 ―― 何?なぜ?……いや!

「いやあああああああ!!」
「マリア?」

 悲鳴に驚いたギルバートは、マリアの側に駆け寄った。
 震える肩、真っ青な顔。正気さを失った瞳。呼んでもゆすっても気がつかない。

「マリア!」

 マリアは狂ったように、水面をたたいていた。水しぶきが立ち上がり、マリアの白い服をぬらしてゆく。

「マリア!どうしたのだ、マリア!!」

 ギルバートはどうしていいかわからなかった。
 こんな状態の人を見たことがない。
 今にも壊れてしまいそうなほど儚く見えた。ギルバートは強くマリアを抱きしめる。
 体温は感じなかった。

「止めて……私は……私が…私が殺したの」
「マリア?」

 小さく弱い言葉を残して、気を失ってしまった。
 体の力が抜け、ギルバートの腕に重さを残す。
 その瞳から一粒の涙が零れ落ち、大地に返っていった。
 優しくマリアを抱きあげると、額にそっと唇を近づけた。

「シレスの言っていた通りか……でも殺したっていったい?」

 マリアの失った過去が気になった。

「たとえルレーヴァとラバルが敵対した国でも関係ない。私はマリアを愛してしまったのだから」

 もう後戻りはできない。閉じだれていた扉は、開かれた。
 失っていた過去の記憶が、マリアに戻ろうとしてた。

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