第五話  イリス神とギルバート

   <小説>   

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 マリアは、毎日人の何倍も祈った。
 拭い去れない罪を償うための祈りだった。
 過去を変えることはできない、ならば何ができるのかを考える。今は祈ることしかできなかった。
 あの夢を見ることはなくなったが、その夢の代わりに自分を責めるいくつもの顔が現れるようになった。
 「お前が私を殺したのだ。お前が国を滅ぼしたのだ」知らない顔が責め立てて、その姿が家族の顔となる。
 マリアは、やつれていった。
 笑っていても、心から笑っていない。表情だけ元気に見える。
 イシュレーたちは、今にも壊れてしまいそうなマリアが心配で仕方がなかった。
 しかし、心配してもどうすることもできない。

 儀式の日が近かった。
 儀式は神聖なもの。このときにイシュレーはイリスを一番感じるという。
 イリスの洗礼を受け、花嫁となる。
 その前まで犯していた罪をすべて洗い流し、清い心で使える。
 イシュレーたちは、マリアが早く成人することを願っていた。
 マリアの罪の意識を洗い流すこれ以上の時はない。
 心の傷が癒えなくても、イリスの許しを得ることはかすかな希望のように思えてならなかった。
 イリスに受け入れられれば、マリアも救われる。
 そう思うことしかイシュレーたちにはできなかった。

 ―― イリスが救ってくれるに違いない。

 マリアを心配しているだけの平穏な日々には終わりを告げていた。
 戦いが激化していると、イシュレスにも伝わってきた。
 今度の戦いはそう簡単に終わらないだろう。
 ギルバートが国に戻されたのも、この戦いのためだった。
 ラバルとギムリの戦いが本格化し、巨大な二つの国を中心にその属国たちも戦いの勢力を広げていた。
 どちらかが倒れるまで、倒れてもなお終わらないかもしれない。
 ついにくるところまで来たと、人々は言う。

「また、けが人が?」
「どうなっているのかしら……?」
「ギムリがついにラバルに仕掛けたらしいわよ」
「何てことでしょう」
「イシュレスのすぐ側で戦いが起きていると……」
「戦火がこの地まで伸びなければいいのですが」
「時間の問題です。戦いの混乱では、イシュレスとて戦火の中に取り込まれるでしょう」
「私たちでは助けられる人に限りがあります」
「医者ではありませんからね」
「薬も人手も足りません」
「できるだけのことはなさい。イリスに導かれるものには、安らかな時を」

 マリアは神殿の片隅で、混乱に陥るイシュレスのざわめきを聞いていた。
 マリアの仕事は包帯を巻き、薬の調合をし、その整理をすること。
 神殿から出ることは許されていなかった。
 しかし、人手不足からマリアを神殿に閉じ込めておくことにも限界が来ていた。

「マリア、あとでそれを持ってきてくれる?」
「いいのですか?」
「人が足りないのです、ユリア様のお許しも出ています」
「わかりました。まとめたらすぐに。気をつけて」

 イシュレーのほとんどは、運ばれてくるけが人たちの介抱で追われていた。
 その数が半端ではない。怪我の深さも普通ではない。ほとんどのものが助からずに死んでいった。
 ラバルもギムリも分け隔てなく手当てをしていたが、更なる混乱を防ぐために、鎧の紋章で場所を分けていた。
 離れているとはいえ、緊迫した空気が取り巻いている。
 戦えるようなものはほとんど居ないが、何か起きてもおかしくはない。二つの国の境目に、ハリスとヘレンが注意深く状況をうかがっていた。
 マリアは神殿から出ることを許されたが、街に入ることは禁じられていた。
 持ってきたものを丘にいる他のイシュレーに手渡し、空になった薬のビンを持ってまた神殿へと帰ってゆく。
 神殿へ帰るとまた足りないものを持って丘まで降りる、その繰り返し。
 人手の足りない時ではあったが、マリアを街に入れるわけにはいかなかった。
 何度か、行き来をしている最中のこと。
 何の前触れもなく、突然マリアは籠に薬の瓶を映している手を止めた。

「いやな予感がする」

 体がぞくぞくした。
 不吉な空気を感じて立ち上がり、窓から街のほうを見つめた。
 見渡しのいい丘の上にある神殿から、マリアの目に入ったものは不穏な空気……いくつもの黒い煙の柱が立っていた。

「火事?……でも何か変」
「マリア」
「ユリア様」
「力が戻ったのですか?」
「いいえ」

 驚いた顔をして、マリアは頭を横に振る。

「そう……ならいいのです」
「街で何が?」
「マリアは行ってはなりません」
「どうしてですか」
「ギルバート様もいらっしゃる戦いです。会いたいというのなら止めません」

 ユリアは、戦いとは別なことを意味ありげにマリアに言う。

「…………」
「なぜ、本当の気持ちを言わなかったのです?」
「言ったつもりです」
「マリアは嘘を言いました。涙とともに本当の気持ちを流してしまった。過去のせいですか?」
「違います。私は自分を愛せません。そんな私が誰かを愛すことができるでしょうか」
「本当にそう思うのですか?」
「私は罪人です。たとえすべての人が私を許しても、私は許せないのです。私はイシュレーとなって償って生きたいのです」
「イリス様がそれを許すでしょうか?」
「え?」
「私たちは神に仕える者。神が一番の存在でなければいけません。イリス様より大切な者など居ないのです。マリア、貴方の心の中で一番大きいのは何ですか?家族?罪の意識?それとも……」
「イリス様です!」
「嘘です。自分を愛せないものが他の誰かを愛することなどできない、確かにそうでしょう。でも、それはイリス様を愛せないということでもあります」
「そんなことは」
「何が違うというのです。イリス様が一番大事なら、罪の意識も忘れられるはずです。私たちの教えすべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを愛すことを自分にも実行できるはずです。マリアはそれができない。イリス様の教えを守れない。貴方は、イリス様を愛しているわけではありません」
「いいえ、イリス様が一番大切なのです」

 ユリアの話し方は優しかった。穏やかで落ち着いている。
 それでも言っている言葉の一つ一つがマリアに突き刺さった。
 必死になってイリスが大事とマリアは訴えるが、ユリアはそれに悲しく微笑むだけだった。
 ただ、神にすがっているだけということを感じ取っていたからだ。
 心は別なところにありながら、イシュレーにならなくてはならないという先入観が、思考を惑わせる。
 そして、他の誰かを愛するなんて許されるはずがないと罪の意識を自分に植え付ける。
 神に仕える者なら、人のために生きるもの。
 罪を償い、人のために生きるのは実に美しい生き方である。
 自分の幸せより、人の幸せを願うことでもある。
 救えなかった、自分のために死んだものたちの変わりに人々を救いたい。
 ユリアにとって、マリアの考えすべてが、そういう自分で居なければならないという、戒めのように思えてならなかった。

「マリア、幸せとは自らがつかむものです。ここに居ることが幸せとは限りません。そして、ここに居ることが貴方の運命でもないのです。貴方はもっと大きな運命の下に生まれた子」

 激しく頭を振った。そんなはずはない、自分はここに居るべき存在なのだと訴えかける。

 ユリアは、マリアが始めてイシュレスへやってきたときのことを思い出していた。
 まるですべてにおびえるように震えていた小さな少女だった。
 マリアは、滅び行く国を見た。
 あまりにも衝撃的な出来事だったため、しゃべることができなくなってしまった。
 イシュレスにきても、言葉を発することを拒んだ。
 やっと人並みに話ができるようになったのは、ほんの数年前のこと。
 姿かたちは大きく成長し、美しくなったが、失った過去とともにたくさんのものを奪われた。
 家族、ルレーヴァの姫として生きること、美しい夢をかなえること、人を愛すること。
 人が当たり前に手に入れる当たり前のものをマリアは持っていない。イシュレスの生活は、さらにひとつの閉鎖的な未来しか描くことをできなくした。
 マリアを外に出さなかったのも、美しすぎる金髪からすぐにルレーヴァの人間とわかってしまうから。
 滅びた国のものが生きているとわかれば、ラバルもギムリも黙っているはすがない。
 捜し求めていたマリアの死体は見つからなかったため、よけい隠さなくてはならなった。
 マリアを欲するギムリの手から、隠すことによって守ってきた。
 王家すべてを葬り去りたいと考えているラバルの手からも逃げ続けた。 マリアには穏やかで幸せなときを生きてもらいたいと思ったからだ。
 幸い、記憶とともに、未来を見るという力を失った。見るという感覚を忘れてしまっただけかもしれない。
 でも、それはマリアにとって嬉しいことのひとつだった。
 未来は見えないほうがいい。
 変えられない未来を見ても苦しむのは自分だけ。未来は見えないからこそ生きる意味がある。

「私たちは、イシュレスという特別な空間で貴方を守ってきた。でも、それは間違いでした。もっと他の守り方を考えるべきだったのです。ここはマリアの居る場所ではありません」
「ユリア様……」

 絶望に満ちた瞳でユリアを見た。
 拒絶されることの痛みを感じた。ユリアの表情はひとつも変わらない。

「心に嘘をついてはなりません。何を捨ててでも守らなくてはなりません。マリアの中に生まれた想いを見ないように隠してはなりません」

 マリアは俯いたまま、何も言わなかった。包帯のかごを奪いとると走って神殿から出て行った。
 マリアは丘をかけていった。
 残されたユリアはひとり天を見てつぶやく。

「これでいいのです。マリアの幸せはもうここにはないのですから」

 丘を下りた時、いつもと違うとすぐさま感じた。
 空気がきな臭い。
 透明で爽快な空気は、よどんでいてい重々しかった。
 何事かと驚いて立ち止まった瞳に、座り込んだまま動けないイシュレーが目に入った。

「どうしたの?」

 そこに居る者立ちの顔色は真っ青だった。言葉すら失っている。

「マリア!すぐに神殿に戻りなさい」

 ヘレンの声がした。

「なぜ来たのです」

 ハリスの声もする。
 目に入ったのは死体の山だった。重なり合う鎧を着た男たちの亡骸。
 手に持っていた籠が手から滑り落ちた。綺麗な包帯は泥にまみれて転がった。
 かつて見た光景と重なり、目の前が真っ暗になる。
 昨日まで平和の街だったのに、ほんの一瞬で死の街へと変わってしまった。

「マリア!早く戻りなさい」
「騒がしい女だ。それでも聖女かい?お前たちは生かしてやっているのだ、ありがたく思え」

 現れたのは立派なひげを生やした大柄の男だった。
 気味悪く笑みを浮かべている。
 勝ち誇った瞳はすべてを蔑んでいるように、にごっていた。
 瞳にその男が映った瞬間、激しい頭痛がマリアを襲う。

「我が名は、ザイラム。ギムリの将軍である」

 獣のような血に飢えた目をぎらぎら光らせて、無意味な笑い声を立てる。
 ギムリという言葉に反応した。
 そして、この男の目を知っていると思った。
 よみがえった幼いころの記憶。父の元にやってきた男が、この男に良く似ている。
 そして、あの日……。

「出て行ってください。ここは神聖なる神の森。血で汚すなど許されることではありません」
「マリア!」
「威勢のいい小娘だ」

 ザイラムは、一瞬のためらいもなくマリアに剣を振り下ろした。
 マリアは、身動きひとつせずにまっすぐザイラムをにらみつけた。
 マリアがつけていたベールが切れて、大地に落ちる。

「お前!」

 一瞬の間もなくザイラムは叫んだ。
 イシュレーの息を呑む声も聞こえる。
 太陽の光に照らされた金髪の髪が、よりいっそう綺麗に見える。

「まさか、お前は……!」
「私はマリア。貴方たちに両親と兄弟を殺されたわ、そして国は滅びた。これ以上人を殺すのは止めて下さい」
「生きていたとはな、聞き覚えのある名前だ。マリアージュといったかあの姫の名前は。愛称がマリア、今もその名を名乗っているとはな。我等の王は、お前の力を欲しがった。今でも欲しいだろう。お前がわが国に来れば殺すのを止めてやってもいいぞ」
「その名前はもう私の名前ではありません。私はマリアです。それに今の私に力はありません。それに、人を殺すのを止めるというのも嘘です」
「マリア、止めなさい」
「ではなぜ、よけなかった?私が斬らずに止めるとわかっていたからだろう。そうでなくては顔くらい背けるものだ」
「私に力などありません。あったとしても、ギムリのために使うことはありません」
「気の強い娘は嫌いじゃない。それにしても、こんなに美しい女は見たことがない。女という表現は聖女には失礼だったかな。あの時のがきがこうなるとはな」

 ザイラムの手が伸びて、あごを持ち上げる。
 珍しくマリアは怒りに満ちていた。見せるのは笑顔ではなく、恨みに満ちた強い視線。

「力がなくともそばに置くというのも悪くない。ルレーヴァの人間は美しい顔立ちをしているからな。それに、この金髪は貴重だ。俺の元に来い、贅沢な暮らしをさせてやるぞ」

 そう言うと、ごつごつとして泥と血にまみれた手で、マリアの髪に触れた。

「贅沢などしたくはありません。貴方の所へ行くのなら死んだほうがましです」

 ザイラムの顔が冷たく凍った。

「では死ぬがいい」

 その言葉とともに、勢いよく剣を振り下ろす。
 斬られる!と思った瞬間だった。
 マリアは白い影に突き飛ばされ、大地に打ち付けられた。
 自分の上に乗って、片腕を抑えているハリスの姿を見て悲鳴を上げた。

「ハリス様!」
「平気です。かすっただけよ」
「運のいい小娘だ。次ははずさない」

 ザイラムが剣で貫こうと構えた時だった。
 目の前を通り過ぎる一頭の馬が見えた。
 そして、馬から飛び降りた一人の男が、ザイラムの剣に自分の剣を打ちつけた。
 一瞬ひるんだザイラムは、とっさに体制を整え、戦いが始まった。
 現れた男は黒い髪をなびかせて、激しい打ち合いをしている。
 剣と剣がぶつかり合う音が、あたりに響き渡る。
 一瞬の隙さえ与えない緊迫感。

「ギルバート様……」

 シレスが現れて、ハリスを少し離れた木陰へと運ぶのを手伝ってくれた。

「危ないことをなさる。相手を怒らせてどうされるのか。貴方はイシュレーでしょう、せめて説き伏せなさい」
「シレス様……すみません」
「私に謝られても困ります」
「……ハリス様」
「平気ですマリア。貴方に怪我がなくてよかった」
「マリア、私が手当てをするわ」
「いいえ、私が……フレリア」
「その震えでは無理よ。そう深くはないし、安心なさい」
「ごめんなさい」

 マリアは、近くに立っているシレスを見ると、そのまま戦っているギルバートを見つめた。
 祈るように手を握り、お守りくださいとつぶやく。その顔色は真っ青だった。

「そこまで心配するのなら、なぜ申し入れを断ったのですか?」
「何のことですか?」
「ギルバート様のプロポーズです」
「何でも知ってらっしゃるのですね」
「まさか、問いただしたのですよ。あの方は昔から顔に出ますからね」
「断った理由を問われると、色々あると思います。私はイシュレーになるためにここにおりますし、そして私が罪人だからです」

 苦しそうに答えると、シレスを見上げる。少し困った表情をして、シレスはマリアを見ていた。

「貴方、もしかしてあの時の?」
「ハリス様?」
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。シレスと申します。お久しぶりです」
「知っているのですか?」
「知っているも何も、マリアのほうこそ忘れてしまったのですか?シレス様が貴方をここへ連れてきたのです」
「え?」

 マリアは、驚きのあまりシレスの顔を凝視した。シレスは、顔に苦しみをあらわした。

「貴方は変わりませんね。昔からまっすぐな人だった」
「本当なのですか?」
「ええ。私は、ギルバート様につく前はルレーヴァとラバルの繋ぎ役でした。常に互いを行き来して連絡を取り合っていたのです。マリアが自分を罪人と呼ぶのなら、私も罪人でしょう」
「どうして……」
「私は真実を見抜けず、知った後も言わなかった。もちろん自分の保身のためです。そしてもうどうにもならないことを知っていた、自分を責めもしたがルレーヴァのとった行動は同じことだと割り切ったのです。ルレーヴァの裏切り行為の裏にあるものを、私が気づけなかったことがルレーヴァの滅びを導いた。貴方のせいではありません。私がもう少しちゃんと調べ、真実を報告していればルレーヴァ王のお心を察し、ギムリ討伐に出たでしょう。ルレーヴァは滅びなかった。マリアは自分を責める必要はありません」
「私が力を持って生まれたからすべてが始まったのです。シレス様のせいではありません」
「誰も、貴方のせいだとは思っていなかった。ただ、ギムリがそこにつけ込んだだけ。私はあの日、貴方の兄に会った。妹を、妹だけは助けてほしいと頼まれた。本当は王族すべて殺すように言われていた。マリアを私は殺すつもりだった……でもできなかった。私にはできなかった。彼は貴方を愛していた、心から大切に思っていた。そんな彼の願いを壊すことはできなかった」
「お兄様が?」
「いい友人でした。国は違えど、人の心は同じ。あの人たちは貴方の幸せを願っていた。マリアの幸せはここですか?」
「……はい」
「そうですか、それが本心ならば仕方がない……私がここにつれてきたことが貴方の道をひとつにしたのですね」

 マリアはぎゅっと手を握った。

 大きな声が空に響いた。
 天を突き刺すように剣は振り上げられ、一点を目指して斬りつける。
 そこに居た男は、力なく血に倒れ、動かない。
 息を荒くした黒髪の男。
 ギルバートは肩を大きく揺らし、横たわった男をしばらく見下ろしていた。
 そして、振り返った。

「確かに道をひとつにしてしまったのは私です。でも、貴方は他の道にも進めるのです。決めるのは貴方です、マリア殿」

 遠くに立つギルバートの瞳と、マリアの瞳はぶつかり合った。
 優しい男の表情には見えなかった。強いオーラを放つ。
 無意識にマリアは、手に力が入った。
 ギルバートは悠然と風に髪をなびかせて、マリアに近づいてくる。
 周りに居たイシュレーたちも息を呑んだ。
 戦いが繰り広げられるさなか、ここだけがどこか隔離された空間になっていた。

「ありがとうございました、ギルバート様」

 深々と頭を下げたマリアを、ギルバートは見ようとしなかった。

「シレス、戻るぞ。父上にザイラムのことを伝えなくては。体制も立て直さなくてはならない。一度、城に戻る」
「ギルバート様」

 避けるように、逃げるようなギルバートに、シレスは小さく息を吐く。そして傍らに居るマリアに視線を移した。
 凍るように冷たく固まった姿がそこにあった。
 ギルバートの態度がマリアを凍らせる。
 当然とわかっていても、大きな喪失感となって攻め立てた。
 胸が痛む、心が震え上がった。
 自分がギルバートに与えた痛みはこのような痛みなのだと、よけいに悲しみがこみ上げてくる。

「お気をつけて、貴方様にイリスのご加護がありますように」

 マリアは、精一杯の誠意を含めてそうつぶやくと、後ろを向いた。平然としているのが辛かった。

「マリア!生きていて良かった……」

 互いに背を向けている。
 震える肩のままギルバートがつぶやいた。

「この命はギルバート様が救ってくださったものです。そして、かつてはシレス様が。私の大切な命です。もう一度お礼申し上げます。ありがとうございます」

 そういうと深々と頭を下げ、他のイシュレーたちの居る場所へと歩き出した。
 振り返ろうと何度も思った。
 でも、できなかった。
 ギルバートの姿をもう見ていることができない。溢れ出す涙をこらえるのがやっとだった。
 ここで別れてしまえばもう二度と会うことはないだろうと感じていた。そう導いたのは自分自身である。
 マリアはどんなにギルバートへの深い思いを感じていても、その想いを受け入れることができなかった。
 もう時は遅い。
 ギルバートに想われていたのは少し前のこと。
 そして、もう少しで自分はイシュレーとなる。忘れなくてはと言い聞かせた。

「いいのですか?ギルバート様」
「いまさら何を言っている。お前だって反対しただろう、シレス」
「ええ。彼女がもうイシュレーだと思っていたので。神の花嫁を奪い取るなんて困りますし」
「もうイシュレー?ルレーヴァだからではないのか?」
「確かに、最初はそう思ったこともありました……でも、私は真実を知っている。自分の地位が怖くて王に言えなかっただけ。真実を言えば、多少なりとルレーヴァへの恨みは消え去るでしょう。マリアはルレーヴァの姫君、ギルバート様の相手に不足はありません。もちろん……私が味方になればの話しですが。ルレーヴァが裏切り者だといわれているのは、私のせいです」
「シレス?」
「真実など隠そうと思えばいくらでも隠せます。心など見えているようで見えてないものです」
「もう遅い」
「ええ、手遅れになりますよ。後悔しても遅い。イシュレーになればもうここから出ることはできない」

 ギルバートは、マリアを振り返らなかった。
 何度も馬に乗ろうか、乗らないか迷ってためらっていた。

「マリア、時間がありません早く神殿へ」
「儀式はきちんと遂行します」
「こんな時でもですか?」
「こんな時だからです。イリス神が何かをしてくださるかもしれません。イシュレーの誕生は神聖なもの、戦いに生きるもの、死する者に幸せを与えてくださるかもしれません」

 神殿に戻ろうと丘を登り始めた。ハリスも数人のイシュレーとともにマリアの前を歩いていた。
 それと離れるように数人のイシュレーたちは、仕事のため街へと下りていく。

「儀式?」
「マリアの結婚式ですよ」
「結婚式?誰と!」
「何を言ってらっしゃるのです。マリアはイシュレー、イリスに決まっているではないですか」
「イリスのものになるということか」

 ギルバートの心に何かが光った。
 それは希望の光、そして失う光。
 それを嫌だと思った。
 再び噴出したマリアへの思いに駆り立てられた。突然、馬の手綱を放り投げて走り出した。

「マリア!」

 マリアが振り返る暇もなく、ギルバートは後ろからマリアを抱きしめた。

「マリアは渡さない。私のものだ」
「何をおっしゃっているのですか!マリアはこれから本当のイシュレーになるのです」

 そう言ったのはヘレンだった。ハリスはかすかに微笑んだ。

「マリアを愛している。イリスよりも私のほうがマリアを大切に思っている」
「…………」

 ギルバートの真剣さにヘレンもハリスも圧倒されていた。
 マリアは驚きと、首に回されているギルバートの手のぬくもりに、何も言えずに立ち尽くしていた。

「マリア、貴方はどうなのです」
「ユリア様」

 突然現れたユリアが、まっすぐとマリアを見つめて訪ねた。

「私ですか?」
「ええ。本心を聞きたいのです。たてまえなどいりません。イリスはすべてを見ております」

 マリアは微かに視線を上げて、側に居るギルバートを見上げた。
胸に広がる痛み、痛いようでそれは強いぬくもりだった。
 自分がひたすら求めていたのは誰だろう。
 イリスだっただろうか?
 とっさに助けを求めて呼ぶのはイリスだろうか?
 大切に心を緩めているのはイリスだろうか?
 マリアは小さく頭を振った。
 生まれ来る問いにはっきりと答える、それは違うと。
 求めていたのは、たった一人の人で神ではない。

「私は、ギルバート様を愛しています。イリス様よりも、大切です」
「マリア」

 その言葉に驚いたのは、ギルバートだった。
 マリアから手を離すと、熱っぽい視線で見つめた。そして、マリアはそれに答えるように見つめ返す。そして微笑んだ。

「嘘はもうつけません。私にとってギルバート様は特別な存在なのです。私のせいでたくさんの人が死にました。父も母も兄弟たちも……私のために死んでいきました。それでも私を愛してくれますか?」
「当たり前ではないか。私とともに来てほしい。そして、ともに幸せになろう。マリアが幸せになることで罪を償えるはずだ」
「マリア、行きなさい。ここは旅立ちの街。もとより貴方は心を癒しに来たのです。イシュレーになるために来たわけではありません」
「ユリア様?」
「よく聞きなさい。私は未来を語ることはないと思っていました。でもこれだけは言わなくてはなりません。始めてマリアを見た時、運命を持って生まれてきた子だと思いました。ここへ来たのも運命、ギルバート様に出会ったのも運命。そして、これから起こるすべての出来事も運命の中にある。イリス様は沈黙者です。でも、決して私たちをお見捨てになっているわけではありません。私たちが願った願いを叶えるために、運命を背負った子供たちがこの世に生まれてくるのです。マリアこそが、運命の子。貴方がこの世界を変える日が必ず来ます。この世を平和へと導く人となるでしょう。そして、ギルバート様。貴方様もまた運命の子。お二人でどうか、この世を平和へ導いてください」
「ユリア様」
「幸せになりなさい、マリア。愛するもののそばに居ることより幸せなことはありません。貴方は神ではなく、地上での愛を選んだのですから」
「そうです、幸せになってマリア。誰も貴方を恨んでなど居ません。貴方の幸せだけを願っていたはずです」
「マリアをよろしくお願いします。この子はまったくの世間知らずですから、ご苦労なことが多いとは思いますが……」
「これ、ヘレン」
「それでもマリアを愛してくれるのでしょう。幸せを知らぬ子に幸せを」
「承知した。イリスより幸せにする自信がある」

 ヘレンの瞳に微かに涙が光ったことを皆、心に焼き付けた。

「あらあら、鬼の目にも何とかですね」
「ユリア様……」

 ユリアがヘレンを見て微笑む。ヘレンは急いで涙を隠した。

「ありがとうございます……」
「さあ、もう行きなさい。ザイラムの死によってまたここも荒れるでしょう。戦火が伸びる前に森を抜けなさい」

 マリアはくびにかけていたクロスを取り、ユリアに渡した。それはイシュレーという証だった。

「これは持って行きなさい。ここに居たという証です」

 ユリアは軽くクロスに口付けをすると、マリアの首にかけなおした。

「イリス様はいつまでも貴方を見守っていますよ」
「ありがとうございます」

 ギルバートはシレスが連れてきた馬にマリアを乗せると、自分も飛び乗った。
 そして、深々と礼をすると馬を走らせた。
 ギルバートはマリアの顔をマントで隠した。美しい街が無残な姿へと変わっているのを見せたくなかったからだ。

「泣いていいよ」

 マリアの肩が震えていることに気づいたギルバートは優しくつぶやく。
 マリアは、その声に糧がはずれ涙があふれ出た。
 ギルバートの腕の中で涙をこぼす。
 イシュレスでの暮らしを思い出していた。
 暖かいイシュレーたちとの暮らしは優しい思い出しかなかった。
 幸せでなかったはずがない。
 皆の優しさほど美しい愛はない。
 ありがとうと何度もつぶやく。
 ギルバートの片手は、そんなマリアを優しく抱きしめた。



 マリアは、イシュレーになることを放棄した。
 それは悲しみではなく、幸せになるため。
 そして、自分の運命を生きるため。
 自ら生きる道を歩くために旅立ちの街を、旅立つときが来た。
 暮れて行く空に明るい月が空に現れた。
 月が道を照らし、明るい未来がそこにあると語りかける。
 月の光をさえぎるように、マリアの上にギルバートの影が落ちる。
 落ちてくる影は、マリアに優しく口付けをした。

「マリア……必ず幸せにする」
「いいえ、二人で幸せをつかむのです」

 微笑みあった表情にあるのは信じあう心。
 出会うべき運命の相手にマリアは出会った。
 そして、自分の生きる道を見つけた。生きる意味はここにある。



 それから数年後、戦乱の時代に終わりを告げた。それは、ひとりの王と、その后の力によって作られた戦いのない時代だった。
 王は血を流さず平和を築く地上の神と呼ばれ、后は優しい心と微笑みを持った聖女と呼ばれた。
 イリス神がこの世に落とした神の子。
 ユリアはこの未来を見たのだろう。
 そして、その道を自ら歩き、たどり着いた。
 受け継がれた命と、信念がこの地に平和をもたらした。
 いつの時代も幸せと平和を求めている。
 その思いがある限り、平和への願と祈りがその心とともに未来へと紡がれて行く。

 誰の心にも必ずイリスはいるだろう。
 この世に住む人の心が、すべてを受け入れ、許し、愛す、そんな心へと変わってゆく時、平和は必ず来るだろう。
 そして、その平和が永遠に続けばいいとマリアは願う。
 ギルバートの傍らで、微笑みながらマリアは生きた。
 マリアの信念は、イシュレスを離れた後も永遠に消えることはない。
 神に仕える者。
 たとえイシュレーではなくとも、マリアこそイシュレーの中のイシュレー。この世の聖女である。

「マリア」
「どうしたのですか、ギルバート様」
「こっちへ、美しい月が出ている」
「まあ、本当。このところ雨が続いておりましたから、久々の月ですね」
「あの日の月のようだな」
「あの日ですか?」
「そう、俺とマリアが出会った、あの日の月のようだ」
「儚い光を放つ、美しく幻想的な月でしたものね」
「マリアを森に誘い出すくらいな」
「……本当に聞こえたのですよ、私を呼ぶ声が」
「あの出会いは必要だったのだよ。今私たちがこうしているためには……」

 大きな城の広いベランダに、凛々しい王と美しい后が立っていた。
 寄り添いあうように月を見上げ、時折見つめあう。
 月の光によって床に映し出された二つの影は一つに重なり合う。

「ずっと美しい月であってもらいたいです。そして優しい光が照らす地上も美しい国であって欲しいと思います」
「大丈夫。私たちがそんな国を造り、守っているのだから。何でもできるような気がするよ、マリアが側に居てくれれば。イリスなどに渡さなくて良かった。お前は私のものだ」

 ―― マリア、幸せになったね。

 声が聞こえたような気がした。
 微かな記憶が思い出す、兄の声のように思えた。
 罪は一生償えないかもしれない。
 でも、幸せになることで兄が喜んでくれれば、少しは救われるのではないかとマリアは思う。
 自分が幸せになることが兄の願いだったのだから……。

 ―― 幸せよ……ありがとう。

 月の光は、永遠に幸せな恋人たちに祝福と言う名の光を降り注ぐだろう。

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