第二話  冷たい声と優しい言葉

   <小説>   

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 恋がしたいと思ったことがあった。
 それがいけないことと知りながら、恋をすることは心が自由になれることだと思っていた。
 恋の意味さえ知らない少女は、イリスにすべてをささげると誓いを立てることを夢見ながら、ささやかな人間らしい行動に憧れていた。
 永遠にここに居て、神に仕えることが自分の生きる道だと思っていた。
 それが嫌だと思ったことなど一度もない。
 自分にはその道しかないと思っていたし、イリスのために働けることを誇りに思っていた。
 でも、何かが足りなかった。
 まじめすぎると言われ続けていたマリアだったが、皆に隠している心の奥の自由は、過去の記憶がないマリアにしか分からないかもしれない。
 イシュレスに来る前は皆、家族と暮らし、自由に生き、美しい夢を思い描いていたのである。
 当たり前の記憶が、マリアにはなかった。
 マリアは、神殿に居てもまだイシュレーではない。
 ささやかな思いは許されるだろう。
 家族も居なければ、誰かに愛された記憶もない。
 家族でも、友人でも、過去に愛した人でもいい、人に愛されていた記憶がない。誰の支えもないことが、ひどく寂しかった。
 イリスを愛している、でも、イリスは愛してはくれない。
 愛されているに違いないと、見えない姿を信じているだけ。現実感がなかった。
 自分を大切に思ってくれる人がいたら、生きている意味を感じるのではないだろうか?
 生きていることに喜びを感じるのではないだろうか?
 自分は、この世に要らない人間ではないかと、存在などしなくてもいい人間ではないかと、時々マリアは不安になる。
 たった一人の世界へ、自分だけが住んでいるような感覚が襲うのだ。
 それは、夢で逃げ続ける少女から感じる恐怖と、不安にとてもよく似ていた。
 一度でいいから外の世界を見てみたい。
 そして、イシュレスではないところで自由になってみたい。
 今だから願えるささやかな夢だった。
 月の夜、目の前で人が人を殺すと言う現場に居合わせることになったあの瞬間から、世界の広さと、今まで自分に足りなかった実感が感じ取った。
 何も知らずに、イシュレーになることがいいことだとは思わなかった。
 人の痛みが分からなければ、誰も救えない。
 戦いを知らない自分が、戦いに傷ついたものを救えるはずがない。
 このままでは、だめなような気がした。
 外への憧れ、それを願うのは罪に近い。
 それでも、外に出てみたいと言う思いを消し去ることは出来なかった。
 失った過去を思い出せば、こんな風に思わないだろうか?
 失った記憶はいったいどんなものなのだろうか?
 毎日見る、あの夢は日に日に強く訴えかける。
 真実の扉へと近づくようにと、追いかけてくる。
 知りたい、知りたくないと葛藤する声は、マリアの脳裏を覆いつくした。

 すべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを愛す。
 それが、イシュレー。
 皆が隠している過去を受け入れ、守り、自分を愛せるだろうか?
 不安が、日々増えて行った。

 ひとり窓に寄りかかり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 流れていく雲を見ながら、夢のことを考え、そして自分の過去について思い出そうとしていた。
 浮かんでくるものは最悪なものばかりで、頭を振って忘れようとするがうまくいかない。
 断片的な記憶は、鮮明な記憶と置き換えられ、矢に打たれ倒れた男へと姿を変えてしまい、よけいに混乱するだけだった。
 神殿を抜け出したあの日から数日がたっていた。
 マリアは強くしかられた後、罰として罪を懺悔する意味を含めて自室に閉じ込められていた。
 そして、いつもの倍もイリスに祈のるように言いつけられた。
 ひとりの時間は嫌いではなかったが、祈っている間に浮かんでくる恐ろしい光景にぞっとして悲鳴を上げてしまう。振り払っても消えない生々しい出来事だった。
 冷や汗が頬を流れた。
 あの日の光景とシンクロするせいだろうか、血色に染まった人間の顔がマリアを追いかけてくるようになった。
 そして、もうひとつ変化したのは逃げる少女を助けてくれるのはいつもギルバートになった。
 過去の夢と、現実に起きたことが入り混じり、どこまでが夢で、どこまでが記憶か分からなくなっていく。

「マリア」
「ハリス様」
「もう出てもいいですよ」
「はい……」
「どうしたのです、真っ青ですよ」
「大丈夫です。少し考え事を……」
「ならいいのですけど……。街まで行って、ギルバート様の手当てをして来なさい。マリアの責任で怪我をされたのです。しっかりと勤めるのですよ」
「分かりました。行ってまいります」

 白昼夢の恐怖がまだ残っていたが、ハリスの言葉に微笑んだ。

「マリア、真実を知ることが幸せとは限りませんよ」
「え?」

 ハリスは悲しく微笑み、頭を軽く振った。

「いいえ、何でもありません」

 神殿を出て、丘を下りる。
 歩いているとハリスの言葉が頭に浮かんできた。小さなささやきであったが、確かに聞き取った。
 真実を知ることが幸せとは限らない……。
 ハリスは、とてもやさしい人だったが、内に秘めた信念のようなものを持っていた。
 まっすぐな姿勢は、間違ったことも、曲がったことも嫌いな規律には厳しい人である。
 マリアが神殿を抜け出したことを咎め、説教の言葉を綴ったのも彼女だった。やさしい口調の中に、怒りを感じた。

「なぜあんなことを?」

 知りたい真実はたくさんあった。
 自分の過去、あの夢の意味。そして、容姿の異質さ。
 ずっと不思議だった。
 自分だけ髪を人に見せてはいけない理由とは何だろう?

 ―― この金髪……。

 この髪に何か意味があるのだろうか?
 イシュレーの中に金髪のもの居ない。
 街に来る者たちでも、金髪の人間を見たことがなかった。
 シレスの驚きも普通ではなかった。
 ギルバートもずっと、髪の色を気にしているようだった。
 国によって髪の色と目の色は違っている。
 自分だけが異色の人間だと言うことは分かるが、どうしてなのか分からなかった。
 見られてはいけないほどの理由とは何だろう。
 誰に聞いても教えてはくれなかった。

 ―― 何を隠しているのだろう?

 幼い頃は考えもしなかった。
 でも、今は知りたくて仕方がない。自分の存在すら疑問に思えてきて、考えはどこにもたどり着かない。
 人は必ず生きる意味を持って生まれてくる。
 ならば、何のために自分は生まれてきたのだろう?
 マリアは考える。
 イリス様のために生まれてきた?
 今は自信がなかった。
 自分の過去に恐ろしいものが隠れていると、感じ取ったからだ。
 神に使える者が、血にぬれた過去があってもいいのだろうか?
 神に仕える者になるためにも、自分の過去が知りたかった。
 イリス様にふさわしい自分なのか、疑っているうちには前に進めない。
 皆が隠しておきたいほどの罪を、背負っているのかもしれない。

 ―― このままではいけない。たとえ、皆がイシュレーになることを認めてくれても、自分自身が受け入れられない。

「私は何者なのだろう?」

 誰かに聞いてみたかった。そして、教えて欲しかった。
 金髪の人が住む国と、隠そうとする理由を聞いてみたい。
 真実を知ることが幸せではなかったとしても、それが自分の過去なのである。扉を開き、中を見ないわけには行かない。

「イリス様は試しているのだろか?私がすべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを愛せる人間か。自分の罪を知り、受け入れ、許し、愛せるか……もしそうなのなら……知らないわけには行かないわ。私はイシュレーになるためにここにいるのだから」

 マリアは心に誓った。
 どんなことをしてでも、過去の扉を開いてみせる。
 心を決めた。迷いはもうない。過去は、必ず手に入れる。
 その瞬間、再び強い頭痛がマリアを襲う。
 まるで思い出すことを拒む、もうひとつの心があるようだった。

 ギルバートを運んだのは、街の一角にある宿屋。
 医者というものがいないこの街では、イシュレーが医者の代わりをしていた。
 もともと住んでいる者たちは、イシュレーだけで、「街」にいる者たちは怪我を癒し、心を癒し、旅立つまでそこに留まっているだけの人。
 しかし、今ではいくところを失った者たちも集まってきて、小さな宿場町が出来上がった。
 ここは人の出入りが激しい場所で、立ち寄ったものは必ずいつか旅立って行く。残って働き続けるものは稀だった。
 人々は「旅立ちの街」と呼んでいる。
 森の外では信じられないほど、平和で穏やかな場所。
 敵も味方もなく傷ついたものを助け、手厚い看護をする。
 ここではすべての人が平等であり、差別という言葉はない。
 そして、この街にいる以上、いがみ合う行いは厳禁であった。
 一時的あれ、街に住む者たちは穏やかに生きることがでる。
 いつしか傷ついた人や、行き場を失った人が、外の世界で暮らすまで、体と心を癒す場所となっていた。
 宿屋は街の中心に立っている。旅行客が泊まるというよりは、移動中の休憩地点となることが多いようだ。
 それなりに繁盛しているのだろう、人の出入りは多い。
 イシュレーが中に入ることは珍しいのだろう、マリアが中に入っていくのは人目を引いているようだ。何事かと不思議がっているのが空気からもわかった。
 マリアは、ひとつの部屋の前まで来ると、少しためらいがちにノックする。
 聞こえてきたのは、注意深い緊張感あふれる声だった。
 シレスの声だとすぐにわかる。
 マリアの眉がぴくりと動いた。シレスの声は意味もなく不安になる。
 自分に向けてくる視線は好意的なものではなく、どこか冷たい光を秘めているのを、マリアは感じ取っていた。
 その視線が怖くてたまらない。苦手と思っても仕方がない。

「貴方は……」

 開けられたドアから現れたのは、予想通りシレスで、これも予想通り歓迎されていない表情が見て取れた。

「何か?」
「ギルバート様の手当てをしに参りました」
「貴方が?」
「私もイシュレーですから」

 シレスの前では、緊張が解けなかった。
 イシュレーの中で、一番怖い存在であるヘレンの前での自分の姿に似ていると思った。

「どうした?シレス」

 部屋の中からギルバートの声が聞こえてきた。
 シレスは仕方がないという表情をすると、扉を広げた。

「どうぞ」
「マリアじゃないか」
「先日は助けていただいて、本当にありがとうございました」
「もう会えないかと思っていた」
「すみません……御礼もせずに」
「部屋から出してもらえるようになったのだな」
「あ……」

 楽しそうに笑いながら言うギルバートに、マリアは困ったような表情を浮かべた。
 ギルバートは、その表情が可愛かったのか、さらに声を立てて笑った。
 窓辺に座っているギルバートに緩やかな風が吹きつけ、美しい黒髪がなびく。
 やさしさを感じる瞳は灰色がかった緑色で、少し日に焼けた肌だった。
 色っぽい美しさというのならシレスのほうが強く感じるが、ギルバートもまた魅力のある男だった。
 無意識に視線がにギルバートに向く。その視線に気づいたのか、覗き込むように体を傾けて、微笑む。

「俺が、珍しいか?」
「え?」

 いきなり覗かれた顔が真っ赤になった。

「いえ、あの……怪我のほうは大丈夫ですか?」

 マリアは、人間にあまりなれていなかった。
 特に男の人となると、まったく面識がない。
 すべてが見慣れないものだったが、ギルバートの黒髪に視線を奪われる。
 ギルバートは、マリアをからかうのに楽しさを覚えたようで、今回はうまくかわされたと苦笑いを浮かべた。

「大丈夫だ、元からたいしたことのない傷だ」
「手当てを」

 そばに座ると、手当てを始めた。

「他のイシュレーからマリアの事を聞いた」
「なんと言ってましたか?」
「いつもは絶対にあんなことしないまじめな子」
「…………」
「どうしてあんな時間に、あんなところにいたのだ?普通、真夜中に森になど行かないだろう」

 答えを考えているうちに、黙ってしまった。
 けれど、ギルバートのじっと見つめる瞳に押され、理由を口にする。

「夢を見るのです」
「夢?」
「月の光しかない夜の森。一人の少女がはだしのまま追っ手から逃れるように走っている夢です」

 ギルバートの瞳に移るマリアの表情は、はかなくもろかった。真っ白な肌が余計に細く見せる。

「私は、昔の記憶がありません。取り戻したいのです。過去の記憶を取り戻さなければ前に進めないように思うのです」
「それで、森に行ったら思い出せると?」
「……月を見ていたら、行かなくてはならないような気になって、そのまま誘われるがままに」
「神の声とか言わないだろうな?」
「イリス様ではありません……どちらかというと悪い人の声かもしれません」
「追手はどんな人?」
「わかりません。その夢が現実にあったことかもわからないのです。すべてが影のようです。ただ、その逃げている少女が自分だと感じるのです。追っては私をつかみ、地に放り投げると、剣が天を指す。そのまま振り下ろされた剣が、月を切り裂き私に襲い掛かろうとする。その瞬間、悲鳴とともに私は目を覚まします」

 ―― ガシャン!!

 ガラスが割れる音が、すぐ側から聞こえてきた。マリアは驚いて、包帯を取り落としてしまった。

「珍しいな、シレス」
「申し訳ありません」

 シレスは持っていたトレーをひっくり返したようで、あたりにはお茶が広がっていた。
 その中に多少動揺したままのシレスが立っていた。

「私が」
「いいえ。貴方はギルバート様の手当てをしていてください」
「はい……」

 ギルバートはシレスの失態を笑っていた。

「ひとつ聞いてもいいですか、マリア殿」
「はい、何でございますか?」
「もし、その夢が現実だったとして、どうやってイシュレスに来たのです?あの森での出来事ではないのでしょう」
「はい。ここではありません。私は誰かに連れてこられたそうです。その人が誰なのかは、私はわかりません。記憶にあるのは、震える手をただ握ってくれていたこと、その温もりだけは覚えているような気はします」
「そうですか」

 マリアは、ギルバートに新しい包帯を巻き終えると、シレスに近づいた。そして、広がっているお茶を拭き始めた。

「危ないので、いいですよ」
「貴方様もこのようなことをするご身分の方ではないのでしょう?」
「よくわかったな、マリア」
「ギルバート様も、かなりのご身分の方とお見受けいたします」

 ギルバートは、座ったまま微笑んだ。その微笑には威厳が含まれていた。

「マリア殿。忘れてしまっている過去を思い出す必要などないのではないですか?」
「おい、シレス!」
「どうしてでございますか?」
「忘れているということは、思い出したくないということです。あまりよい思い出ではないのでしょう」

 再び入れなおしてきたお茶を、差し出した。

「お座りなさい」

 マリアはおとなしく差し出された椅子に腰掛けた。
 その姿に元気がない。
 シレスはお茶に口をつけると、ギルバートからの強い視線を無視して、話を進めた。

「貴方は、ルレーヴァの生まれでしょう」
「ルレーヴァ?」
「北の地あった、一年の半分以上雪に覆われている極寒の国。心優しい王が守っていたといわれています」
「どうして私がそこの生まれだとわかるのですか」
「金髪に青い瞳は、ルレーヴァの特色」

 マリアは、ドキッとした。

「ルレーヴァは、もうありません」
「ない?」

 マリアの表情がなくなった。
 ずきずきと頭が痛む。
 そして、ぐるぐると、頭をよぎるのはモノクロの世界。
 真っ青になっているマリアに気づいたギルバートは、シレスを睨みつけた。
 しかし、それでもシレスはやめなかった。

「私は、その国が滅びてから金髪の人間を見たのは貴方が初めてです。どういうことかわかりますか?もう存在しないのですよ。ルレーヴァの人間は全滅したのですから。滅びた国から逃れてきた。そんな貴方の過去にやさしい思い出などあるはずがないと私は思います」
「…………」
「どうして髪を隠すように言われているのです?隠さなくてはならないわけがあるからでしょう。そんな過去を知ってどうされるというのですか」
「……たとえ辛い過去でも、それが私の過去です」
「シレス!やめろ」

 シレスの声は冷たく、ギルバートの声は優しかった。

「帰ります……明日また来ます」

 そう言って立ち上がるのがやっとだった。

「下まで送る」
「いいえ、お茶をご馳走様でした」

 そう言って、カップを置いたが、お茶は一口も減っていなかった。
 シレスは無表情でお茶を飲み、にらみつけて通り過ぎていく足音を聞いてため息を吐いた。

「マリア!」
「ギルバート様……」
「すまない、あいつは少し口が悪くて」
「いいえ、いいのです。あの方の言うとおりです。私も過去が知るのは怖いです。夢も楽しさの部分などありませんから。ユリア様も、他のイシュレーもみんな私には何も言わない。それがなぜなのかわからないわけがありません。でも、知らなければならないのです」

 マリアは、必死に訴えかけた。
 怖くても知らなくてはならないことがある。
 失ったものは、確かに自分の一部なのだ。忘れたままでいいはずがない。
 そう思ってしまったマリアは、そこから動けなくなった。
 まるで呪縛のように過去を探す。
 ギルバートは、マリアの強さと、儚さを感じ取る。
 真っ青になりながらも、強い意思を表すマリアをどう励ましていいかわからない。
 泣き崩れてくれれば、抱きしめて暖めてあげることもできるのにと考えていた。

「今度、馬で出かけないか?」
「?」

 必死に考えた励ましの言葉は、あまり得策ではなかったと言ったあとに後悔した。

「あ……森から出てはいけないのだったか」
「外へ……外へ連れて行ってくれるのですか?」

 しかし、マリアの顔は一瞬で明るい表情に変わった。それに驚いたのはギルバートのほうだった。

「でも、森から出たら」
「あ、そうだったわ……」

 マリアは、あまりにもギルバートの言葉がうれしくて、現実を忘れていた。
 ギルバートに言われてはじめて気づく。
 ふわりと笑顔を見せて、ギルバートに笑いかけた。
 そのやさしい微笑みに、ギルバートは身動きが取れなくなった。
 始めてマリアが見せた笑顔だった。

「私、一度でいいから森の外に行ってもたかったのです。神殿からも出してもらえないので」
「森の中は平気で行っていたではないか」
「それは言わないでください。ご迷惑をおかけした上に、怪我までさせてしまいました。なんてお詫びしていいのかわかりません」
「気にすることはない。マリアを救えたことは誇りに思う。では、マリアひとつ提案なのだか」
「提案ですか?」
「二人の秘密で出かけるというのはどうだろう」
「ギルバート様!」
「大丈夫だよ、そう襲われたりしないから。ばれることもない」
「本気ですか?」
「マリアが行きたいならだけど」
「それは……誘惑です」
「ははは、誘惑ね、いい言葉だ。では約束だ」

 マリアはうれしそうに、笑顔を見せて神殿へ戻っていった。
 こんなに楽しい嘘なら歓迎だった。
 嘘をつくことに罪を感じなかったわけではない。
 でも、それ以上に外へ行って見たいという思いが大きかった。
 喜びに心を躍らせる。
 こんな機会はもうないだろう、イリスが与えてくださったのかもしれないとすら考えるほどだった。

 ギルバートは、部屋に戻ると座ったままのシレスに厳しい声で言った。

「どうしてあんなことを」
「本当のことを言っただけです。貴方も知っているでしょう、ルレーヴァがラバルでなんと言われているか」
「…………それは」
「裏切りの国。ギムリにラバルを売った罪国です」
「それは……マリアには関係ない」
「ギルバート、かかわってはなりません」

 珍しく強い口調だった。ギルバートもその声に一瞬ひるんだ。
 名前を呼び捨てにするときは、はむかわないほうがいいと悟っていた。

「自分の立場を考えなさい。あんたはラバルの王子なのです」
「わかっている!」

 ギルバートは叫ぶと、隣の部屋へと入っていった。
 大きな音ともに扉が閉まる。シ
 レスは、横目にそれを見るとまたため息を吐いた。

「わかっていても、どうすることもできないことがあるだろう……」

 寄りかかったドアをすべるように床に座り込んだ。
 小さな呟きには、ため息が混じる。
 その瞳に移っているのは、部屋の風景ではなく、マリアの笑顔だった。

 動いている時を止めることはできない。
 そして、それと同じく、動き出してしまった運命をとめることもできない。
 すでに、運命は動き出してしまった。
 もう誰も、あともどりは出来ない。
 前に進むしかない。
 その道が、どこに続いていたとしても、道は前にしかできないのだから。
 生まれてくる道が、まっすぐなのか、曲がっているのか、目の前は真っ暗で、先を見ることはできなかった。

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