第3話  月人
 

   <月の図書館>   


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 少し高くなった月を月人は黙って見ていた。私たちは並んで砂浜に座っていたが、急に彼が立ち上がった。私の上から光が消え、月人の影ができた。驚いた私は、月人を見上げる。

「逃げるんだね」
「え?」
「美咲は逃げてるんだ、ここに」
「逃げてないわ!!」
「このままここに居たいってのは逃げてることだよ!」
「何を言ってるの?」
「美咲はまだ気づいてないんだ、ここがどこか」

 月人が何を言ってるのか分からなかった。確かに私は、別れたあの人のことから逃げているのかもしれない。自分という人間に少しはあった自信を打ち砕かれたのだから。それなりに、顔にも、スタイルにも自信があった。頭もいい方だし、スポーツも得意な方だ。ピアノのコンクールでは優勝したこともある。性格は……自分でも分からないけど、嫌われるほど悪くはない。
 それなのに、天秤にかけられて自分は負けたのだ。愛や恋に勝ち負けなんかないのかもしれない。 でも、私といることより、彼女といることを選んだ、それは私という人間を拒絶したのだ。
 いいえ、人間というよりはメリット。私と付き合うことに何のメリットもないから捨てられたのだ。 私の中にあったプライドは脆くも崩れ去った。それから逃げてはいけないのか?ほんの少しの間くらい現実から逃げて、元の私に戻れるまで、このままで居たかった。それを逃げていると言われても仕方がない。恋人に振られたばかりですぐに立ち直れるわけはなかった。

「月人も誰かに本気で恋をして、別れれば分かるわ」

 大人気ないことを叫んでると分かっていても止められなかった。自分でも分からない、苛々に感情がついていかなくなっていた。

「美咲はその男のことを今も好きなんだろ。別れて辛いのは分かるよ。でも、立ち直ろうとしないとずっとこのままなんだ」
「別れたのは今日よ、そんなにすぐ立ち直れるわけないでしょ!!」

 私も立ちあっがった。

「本当に今日だと思ってるの?」
「え?」

 体中に流れ込んでいた怒りが、月人のその一言ですっと抜けてしまった。

「よく思い出して。あの日、何があったのか。男と別れたあと美咲がどうなったのか。思い出せよ!」
「今日……あの人と別れ話をして……」
「どこで?」
「いつもの喫茶店」
「別れ話をした後は?」
「私、呆然んとして、それから急に怒ったの。だって許せなかったから。別れた一番の原因が、出世のためだという事実を知った。そして分かってしまったの、ずっと気づかない不利をしていたこと。なぜあの人が私に声をかけてきたか、私と付き合い始めたか……全部、私があの人の姪だからだということに。あの人が欲しかったのは、栄光ある未来。あの人は違うと思っていたのに、同じだった。信じてたぶんだけ裏切られたのがショックで、でも許せなくって……『別れてあげる』とて言って飛び出したわ……。走って飛び出す時、机にぶつかって、テーブルのコップが床に落ちて割れた音を聞いた。それでも振り返らずにお店を飛び出した」
「それから、真っ直ぐ家に?」
「いいえ、ここを目指してた。海が見たくなって。だからここに……」
「ここに着いた?」
「だって私ここにいるでしょ?……でも、何で夜なのかしら?私、夜まで何をしてたのかしら」

 記憶をたどった。あの人と会って別れたのは昼だった。でも、今は真夜中。こんな時間まで何を……?海を見てたのかしら?何時間も、寒い海岸に居た?ちっとも寒くないし……。
 私はコートを握り締めたが、どこを触っても冷たくなっていなかった。寒さも感じなかった。持って出たはずの鞄も見当たらない。

「私、いったい……?」

 急に記憶のかたすみに何かが光った。

「車……車が飛び込んできたんだ。私が渡っていた横断歩道に。信号は青だったわ、確認したもの。なのに急に……」

 目の前にある月人の顔を見た。私は指先から力が抜けていくのが分かった。膝に力が入らなくなって、そのまま座り込んだ。砂の冷たさも感じなかった。

「大きな音を聞いたわ。車のブレーキの音。……私、死んだの?月人、あなたは何者?」

 すがるような目で月人を見た。

「美咲は死んでないよ、まだね。一週間眠ったままだ。このまま目を覚まさなければ、近いうちに死ぬかもしれない。もしかしたら、このまま眠ったままかもしれない。目覚めるか、そうじゃないかは美咲自身にかかってるんだ」

 月人の目は優しかった。

「月の住人て言うのは嘘だよ。僕は夢の番人なんだ」
「夢の番人?」
「人は夢を見るだろ。その夢の国には扉があるんだ。決して他の者が入れないように。夢の国はその人だけのものだから。 その扉を守ってるのが夢の番人」
「月人が私の番人なの?」
「違う。夢の番人は主人には会えない」
「じゃあ」
「誰の番人かは言えない」
「なぜ、私に会いに?」
「君の番人に頼まれたんだ。目覚めず、夢の世界に迷い込んだ美咲を助けて欲しいって。番人は番人どうし勝手に会うことができるんだ。だから、夢の扉を開けてもらって中に入った。君を目覚めさせる手助けをする為に。美咲が現実だと思ってるこの世界が夢の世界だって教える為に」
「分からないわ。どうしてここにいるのかも、どうやったらここから出られるかも」
「美咲、裏切られたって言うわだかまりから逃げてるだけだよ」
「そんなにすぐは忘れられないわ」
「……美咲、本当はここに死にに来たんじゃないのか?そして、まだ死にたい気持ちが残ってるんじゃないのか?だからここに、夢の世界から抜け出せないんだ」
「死にたいなんて思ってないわ。ただ、しばらく一人でいたかったの。誰にも邪魔されずに」
「このままじゃ戻れないよ」
「そんな……」

 背筋に悪寒が走った。このままここに閉じ込められてしまうと思うと急に恐怖に包まれた。

「私、まだ死にたくないわ……ここに一人でいるのも嫌よ」
「美咲は強がってるけど怖いんだと思う。また、誰かを信じて裏切られるかもしれないことが。ここにいれば安心だからね。夢は決して人を傷つけないから……」
「月人って良く分かってるのね、私のこと」

 月人は優しく笑った。

「ちょっと告白すると、ずっと美咲を見ていたからね」
「そうなの?」
「うん」
「……裏切られるのが怖い。あの人、月人より私の事分かってなかったのね。あの人いったわ、初めからわかっていたのだろうって。自分が何を求め、なぜ私と付き合ったか。そういった育ち方をして、言い寄ってくる男がみんなそういう男だって。私のおじさんは大きな会社の会長なの。私に言い寄る人はみんなその会社が目的。あの人と付き合おうと思ったのは、それを感じなかったから。でも、同じだった。しかももっと狡猾で、ずるがしこい。あの人が選んだのは社長令嬢よ。いずれ会社が手に入る。私では何も手に入らない、おじからの信頼以外わね。確実に手に入るものを、あの人は求めた。みんな同じなの、私じゃなくて私の後ろにいるおじを見ている。些細なきっかけとなってそれが表に現れた」
「?」
「私の中にずっと眠ってたものが噴出した。もう、利用されるのは嫌。人間は弱い生き物、すぐさま何かに流される。見たくない現実、知りたくない隠された人の心にふたをする。戻ったらまたその弱さ、醜さと戦って生きてかなきゃいけない。それが怖い。一度受けた小さな裏切りで今まで保っていた均衡が崩れてしまった」
「それに打ち勝たないと戻れないよ」
「分かってるわ……分かってるの」
「美咲に足りない物はほんの少しの勇気だと思う。付き合ってた奴にも本当の自分を隠してた。それも、本当の自分を見せるのが怖いから。 臆病な自分を隠して一歩さがっている、勇気を出さなきゃだめだ。本当の美咲自身がもっとも綺麗なんだよ。 戻りたいって願うんだ。目覚めたいって願うんだ。心の奥底から。美咲!!」
「月人……ほんの少しの勇気か……そうね。素直じゃなかったのね、自分に。ありがとう、月人。あなたに会えてよかった」
「美咲!?」
「私がんばってみる、もう一度本当の自分と向き合って生きてみる。もう迷わない。私は生きたい。まだ、生きていたい。そして、もっと自分を好きになるの。こんどこそ本当に私を心から愛してくれる人を見つけて、私もまた心から愛すの。裏切られるのなんか怖くない。誰も信じられないことの方が怖いことだもの。人はひとりでは生きていけない」

 体がフット軽くなった、驚いて両手を広げてまじまじと見つめた。体が透けて見えた。

「美咲、がんばれ。きっと大丈夫、美咲ならきっと出会えるよ運命の相手に。夢の番人は知ってるんだよ、運命の相手を。人が見るもっと美しい夢が、最愛の人を思って見る夢だから。皆、辛い思いをしても恋人を探し続けるのは信じてるからなんだ、自分の運命の相手を。そして、必ずいるんだ、運命の相手は。そして必ずあるんだ、運命の相手との出逢う瞬間が……信じてさえいれば、必ず。美咲、君にも必ず」

 私の消えそうな手を強く握った。体温なんかないはずなのに、その手は不思議と暖かかった。

「また、会える?」
「……信じていればきっと。ただし、夢の中ならね」

 月人はおかしそうに笑った。私も、久しぶりに笑った。体がふわふわして気持ちよかった。何か暖かい物に包まれてる、そんな感じだった。

 私が気づいたのは病院のベットだった。
今まで感じなかった寒さという感覚が、体に戻ってきたようだった。ここは暖房が効いてるのかなんだか熱く感じた。薄っすらあいた目には光が差し込んでくる。辺りは真っ白だった。少しづつ視界に何かが映ってきた。初めに映ったのは母の顔。心配そうに私を覗き込む、泣き腫らした目の母の顔だった。その次は白い天井、看護士、そして医者……。ゆっくりと時が動いているようだった。まるでドラマの目覚めのシーンのようにあらゆる場面が展開された。私はそれを他人事のようにただ見ていた。視界がぼやけてよく見えなくなった。
 目からは涙がこぼれて止らなかった。次から次へと新しい涙がこぼれた。

 あんなに泣けなかったのに……。
私は泣き続けた。涙が止るまでずっと泣き続けた……。


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