第5話 佐和子
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病室の中は綺麗に整えられていた。それほど広い個室ではなかったが、隔離された空間のように閉ざされたイメージを受けた。数箇所に花瓶にいけた花が飾ってあったが、あとは何にも飾りが無かった。病室なのだから当たり前かもしれない。しかし、どこか淋しげで、悲しげな場所だった。 「これ、クラスからなんだ」 亨は佐和子に花を手渡した。綺麗なオレンジ色のガーベラだった。カスミソウの中に埋まったその一輪一輪はとても可愛らしかった。亨が、これがいいととっさに言ったのだ、理由など無いなんとなく。香織も、直人も賛成した。ガーベラは綺麗な花だったし、元気なイメージがあったからだ。 花を受け取ると佐和子は優しく微笑んだ。 「どうもありがとう」 亨も微笑んだ。自然に笑顔が出ると言うのも亨だった。そして佐和子もまたそうだった。どことなく同じような雰囲気を漂わせている。 「どうぞゆっくりしていってくださいね」 母親はそう言って花と花瓶を持って部屋を出て行った。亨はその表情を追っていた。微かな微笑みの中に、涙をこらえているような気がしてならなかった。そんなに大変な手術なのだろうか?目の前にいる佐和子は確かに痩せていてはかない感じがあった。青白く、それほど顔色がいいともいえない。 それでも時折見せる笑顔には苦しさを見せなうような優しさを持った無垢な笑顔だった。亨はその笑顔を見るたびにホッとするが、それ以上に大きな不安の思いが生まれるのを感じた。 「はいこれ、ケーキなんだけど良かったら後で食べてね」 香織がもうひとつのお見舞いであるケーキの箱を渡す。 「ありがとう。あの、一緒に食べませんか?」 佐和子はやはり笑顔だった。 「でも……」 「こんなにたくさんひとりじゃ食べられないわ。お好きなのをどうぞ」 そう言うと、点滴をつけたまま立ち上がってお皿とフォークを取り出した。三人は顔を見合わせてどうすると目で会話していた。差し出された椅子になれない風に腰を下ろす。落ち着かないと言った風に意味も無く辺りを見回した。 「藤沢さんに買ってきたのだから、先に選びなよ」 「あ……私これが終わるまで食べられないの、だから気にしないで。ケーキはどれも大好きよ」 佐和子は点滴を見上げていった。ああ……と言った風に亨は頷いた。 「せっかくだから頂こう」 亨は佐和子に気を使わせないために率先していった。佐和子は微笑んで、冷たい紅茶を出してくれた。 他愛無い会話を楽しんだ。クラスの皆の話や、先生の話し、これからある学校祭の話。佐和子にはどれも新鮮な話なのか、それを楽しそうに聞いていた。比較的大人しい子だった佐和子は、微笑を浮けべてそこにいた。穏やかな雰囲気。亨は、話ひとつひとつに気を使っていた。直人は単純な頭なので、とっぴな事をいつ言うかと内心冷や冷やしていたのだ。だから、話の主導権を譲らないように頑張っていた。それは香織も同じ気持ちだったに違いない。後に、直人は人選ミスだったと後悔する事になる。直人は楽しく、いいやつだったが、事の重大さを考えずに話をするところがあるのだ。思い付きで発言するタイプ。流石にそれを亨は少し心配していた。 「今日は本当にありがとう。来てくれて本当に嬉しかった。もう私の事なんか忘れていたでしょ?」 「そんな来ないわよ、藤沢さん」 「忘れられても仕方が無いわ。学校には1ヶ月くらいしか行っていないし。ほとんどここから出してもらえないしね。やっと学校へ行けるようになったと思ったら体調を崩してしまって。結局、手術する事になってしまった」 佐和子は淋しそうに笑った。実際香織も直人もほとんど佐和子の記憶が無かった。そんな事は無い、と言った事に罪悪感を感じ胸が痛んだていた。 亨だけはそんな事はどうでも良く、淋しげな佐和子の表情に惹き付けられていた。 「皆早く元気になってって。正直、入院してるなんて知らなくって」 「私が言わないで欲しいと先生にお願いしたの。学校にいけるようになった時心配されるのってあまり好きじゃないし」 「…………」 「もう慣れっこなの。気にしないで、生まれてきた時からこの体と付き合ってるから」 佐和子の表情には何ひとつ嘘は感じなかった。きっと慣れてしまったと言うのも、本心から言っているのだろう。 「手術すると直るの?」 「え?」 直人の言葉に凍りついたのは佐和子だけではなかった。亨と香織もとっさに直人の顔を見て目配せした。それとほぼ同時に、廊下で大きな音がした。何かが割れる音。ガシャン!!大きな音は静まり返った病室にも響いた。 佐和子はその音に硬直したのか、直人の言葉にそうなったのかほんの一瞬体を震わせた。布団の端を無意識に掴んだ。なんとも言えぬ緊迫した雰囲気に直人は口走った言葉の重大さを感じ、唇をかんだ。そして、あからさまにしまったと言う顔をし、目が泳ぐ。 この状態を一番心配していた亨はどう収集し様かと必死に頭を張り巡らせていた。しかし、亨の体を捕らえていたのは、病室に漂う不安と恐怖の気配だった。ひしひしと体に伝わってくる気配。亨も無意識のうちに制服のシャツを捕んでいた。 この凍りついた雰囲気を断ち切ったのは紛れも無く佐和子自身だった。にっこりと微笑む姿はあからさまに嘘の笑顔だと直人にでさえわかったが、あえて考えないようにした。 「難しい手術だとは思うわ。でも、成功すれば普通に生活できるようになみたい」 「そ……そうなんだ」 震える声で答えたのは直人だった。 一瞬見せた影が、真実を物語っていた。よほど難しい手術なのだろう。成功確立50%……母は佐和子にそう言っていた。実際はもっと低く言われていたに違いない。それが佐和子の命の確立だった。すでに体は弱ってきている為確立はきわめて低い。しかし、このまま何もせずに生きている事は不可能に近かった。手術をしなければ半年とて生きていられるか分からない。いつ死ぬか分からない、先のない命を抱えながら佐和子は生きていた。決して弱さを見せずに、笑顔を忘れずに。 たった50%……それにすべてをかけなくてはならなかった。不安にならないはずが無い。恐怖に震えないはずが無い。しかし、誰にも心配かけまいと必死だった。佐和子は佐和子なりに耐えていた。自分は直るんだ、手術は成功するんだ、そう信じているかのように明るく振舞った。両親にも、お見舞いに着た三人にも同じように、自分は元気なのだと。無理をしていないはずが無い。死を目前にした人間が恐れないわけが無い。誰もが生きていたいと願うはず、もっと生きたいと思うはず。生まれ来る不安と戦い、恐怖と戦う。信じることしか出来はしない。 「手術が成功したら、また学校へいける日が来る、それを楽しみにしているの」 「その時はひとつ下だね」 亨はさらっと笑顔で言った。佐和子は目を見開いたが、すぐさまにっこり笑った。 「そうね……流石に休みすぎだもの」 その声は明るかった。 「でも、それでも今まで出来なかった事が出来るんだ、嬉しい事には変わりないだろ?」 「ええ、もちろんよ」 佐和子は目を輝かせて言った。 亨は佐和子に笑顔を取り戻させた事にホッと安堵した。その笑顔に嬉しさを覚える。 緊迫していた空気も和んだ。直人と香織は止まったままだったが引きつったような笑顔を浮かべていた。 「佐和子ちゃん、検温の時間よ」 看護士が病室に入ってきた。その姿を見ると亨は立ち上がった。 「じゃあ、そろそろ」 「今日はありがとう。とっても楽しかった。来てくれて……あえて嬉しかったです。クラスの皆にもよろしく伝えてください」 「分かったわ。またきてもいい?」 「もちろんよ、深町さん」 「他の子連れて遊びに来るね」 「ありがとう」 「じゃあ、手術頑張って」 直人は恐る恐る言葉を口にした。 「ありがとう」 「藤沢さん。諦めたらダメだよ。幸せを手に入れるために。君ならきっと乗越えられると思う」 「……ありがとう」 男達は笑顔を残して立ち去り、戻ってきた母親に挨拶をした。亨はその手にもたれていた花瓶が持って出たものとは違う事を見逃さなかった。直人の言葉に世界がひっくり返るような思いをしたのは、紛れも無くこの人だろう。花瓶を持つ手が触れえている。 香織は少し考え込むように立ち止まって、引き返した。佐和子の耳元で小さく囁いた。 「ねえ、連れてくるの松宮君の方が良い?」 「え!?」 佐和子は大きな声をあげるほど驚いた。そして、楽しそうにウインクしている香織をじっと見つめた。 「あの……?」 「私たちを見つけたときから視界の入っているの松宮君だけだったから。それに藤沢さんが初めて登校した日のこと私忘れないわ。たった一瞬で恋に落ちるってこう言う時かって密かに思っていたの」 「私……」 「何くらい顔しているのよ。藤沢さんの手術は成功する。そして、あのお堅い委員長を落としなさいよ!」 「私そんなこと!」 「だって好きなんでしょ?」 「あ……え?……あの……」 佐和子の目は空を彷徨い、真っ赤になった顔でうつむき黙り込んでしまった。香織はそんな佐和子を可愛いなと思って眺めた。 佐和子にとって亨の存在は誰より大きかった。憧れの人。ほんの些細な事がうれしかった。たった一言の言葉が宝物だった。もしかしらこんな事で恋をする方が珍しいのかもしれない。学校をずっと休んでいて、一度も訪れた事の無い教室に入っていくのは大きな勇気が必要だった。 このまま家に帰りたいとさえ思った。楽しげな教室からの声が怖くさえ聞えた。この中に入っていけるだろうか。いたって普通な心臓の音がひどく壊れて聞えてきた。立ち止まったまま動けない教室の前。動かない足、進めない自分の弱さ。損何状態の自分の背中を押したのが亨だった。 「藤沢さんでしょ?席分かる?」 まるで普通だった。 「中に入りなよ、席は僕の前なんだ」 そう言ってにっこり笑った。 「初めまして、松宮亨……クラス委員をしているんだ。席も近いし、分からない事あったらなんでも聞いて」 佐和子はまるっきり口が利けなくなっていた。あまりの緊張の為と、もともと学校になれていなかったからだ。中学のころもあまり登校せず、体調がよく投稿した時も誰も話し掛けては来なかった。たまに同情のまなざしを向けられ、話し掛けてくる人たちもいたが、その人たちは決まって「大丈夫?」とか、「来るの楽しみにしていたのよ」と心にも無い事を口にする。顔は無表情か、作り物の心配そうな顔だった。そんなことに慣れてしまっていた佐和子は学校をそれほど楽しいところとは思わなかったし、無理してまで行って何になるのかとさえ思っていた。どうせまたすぐ休んでしまうのだから、行く必要はないのかもしれない、そう思うこともしばしばだった。 高校に通うのは迷ったが、もしかしたら新しい学校生活ができるかもしれないと想い中学の時のクラスメイトのいない学校に進学した。また病気だということを知られてしまえば同じ生活になってしまう。だから誰にも言わないで欲しいと先生に頼んだのだった。担任の先生は、それに反対したが、最終的には佐和子の願いを聞き入れた。 たったそれだけのことだった。長く休んでいたクラスメイトが登校してきた時のごく普通の対応だった。でも、佐和子にとって今まで出合った誰とも違った言葉を口にし、優しい笑顔をくれた。病気だと知らないはず……。はじめは気を使ってくれているのかと思った。すぐにそんな顔ではないと察した。まるで、風邪を引いて久々に来たクラスメイトに対する態度、そんな感じだった。この人はなんて自然な人なんだろう。最初のイメージはそれだけだった。でも、知らないうちに視線が亨の後を追っていることに気づいた。一瞬で恋に落ちると言うのはこんなものかと、初めての経験に戸惑った。香織が言った通り、佐和子は恋の淵にいたに違いない。 「皆、藤沢さんが来たよ」 亨のひとことでクラス中からの視線が集まった。クラスはいったって優しさに溢れていた。今までいた学校とはまるで違う。誰も病気とは知らないからかもしれない、言わなかったのは正解だったのだ。佐和子は学校に来るのが楽しいと思うようになった。 たかが名前。されど名前。佐和子には感動的な出来事だった。学校が始まって1ヶ月も経ってやっと出てきたクラスメイトの名前など誰が覚えているのだろうか。すぐさま気付いて話し掛けてくると事などあるのだろうか?自分の存在を覚えてくれていた人。藤沢佐和子と言う存在を心に留めてくれていた人。それが亨だった。 私はここにいてもいい人間なのだ。そう思うと涙が出るほど嬉しかった。恋に理屈はいらない。佐和子にとって亨は自分が存在する上でもっとも大切な人となった。 あまり長く通えなかった学校生活の中で、亨との大切な思い出があった。夕日の差し込む教室での出来事を佐和子は決して忘れないだろう。それくらい鮮明に記憶に焼きついていた。その思い出だ毛さえあれば、このまま死んでもいいかもしれないと思うほど大切な宝物の時間だった。 恋を叶えたいとは思った。しかし、かなわなくてもよかった。恋人になりたかったわけではない、かなわない恋でも構わなかった。恋をしていると言う事実と、大切に思える人がいるだけで幸せを感じていたのだ。 でも、会いたかった。亨に会いに学校へ行きたかった。少なくとも学校へいけば憧れの彼と共に過ごす事ができるからだ。それだけでよかった。しかし、それさえ叶わなかった。 病気は彼女の体の自由ばかりではなく、ささやかな願いまで奪い去った。病室に繋がれ、記憶の中の亨だけが佐和子の救いだった。 突然目の前に現れた憧れの人。驚きと喜びで胸が躍った。それでも平然さを失わないように佐和子は必死に隠していた。まさか香織に気付かれているとは夢にも思わなかった。 香織の言う事が分からないわけでない。好きなら手に入れたいと思うのは普通の事だと思う。しかし、佐和子にとって自分の恋心は相手にとって迷惑でしかないと決め付けていた。今にも死んでしまいそうな自分の体、誰がそんな少女を好きになってくれると言うのか。クラスメイトとしての付き合いとは違うだろう。恋などとうに諦めていた。誰かを好きになることがあるとも思わなかった。亨に出逢えた事が何より素敵なことだったのだ。 届かない想い。憧れは憧れのままでいい。大切な人は大切なまま、心にすまわせておけばいい。ただそれだけで、会えただけで嬉しかった。この日ほど入院していてよかったと思ったことは無いだろう。目の前に現れた亨のすべて目に焼き付けた。何より好きなその笑顔を忘れないために。 亨はそんな瞳になど気付きもしなかっただろう。そんな想いがあるなんて思いもしなかっただろう。香織が気が着いたのはやはり女の子だからかもしれない。 「告白とかはしないの?」 「しないわ……!」 佐和子ははっきりといった。色んな思いが交錯していた。しかし、それ以上の事は望みはしなかった。望んではいけないと決め付けていたのかもしれない。頑固なまでに佐和子はそれを変えようとはしなかった。 「松宮君好きな子って多いと思うの、彼あんな容姿だし頭だし。でも、恋とかって縁が無いのよね。なんて言うか目覚めてないって言うか。藤沢さんとならおにあいだと思うんだけどな」 「まさか!!」 「本当よ、2人ってどこか雰囲気が似てるし、なんだか大人っぽいしね」 「私なんて……」 「それダメよ『私なんて』。藤沢さんてはっきり言って美人だし、性格いいし。なんと言っても雰囲気が暖かいもの。自信もってね!」 「ありがとう」 「まず、体を直す。今はそれね」 「……ええ」 「じゃあね、また来るわ」 そう言うと飛び出していった。 残された佐和子は早まる鼓動を抑えるように胸元を掴んだ。 「佐和子?苦しい?」 心配そうに母親が聞き返す。 「違うの。心配しないで」 そう言って微笑んだ。 出来るものなら、望むものすべて手に入れたい。亨への思いももっと大切にしたい。自分の為にも、もっと生きていたい。しかし、体を覆うのは不安と恐怖。そして、すべてを諦めている自分自身がいる事を知っていた。 私に未来は無いのだから、何を望んでも叶う事は無い。諦めるのは簡単だった。今までだって何でも捨ててきた。生きる事を諦めるのは難しかったが、何を願っても叶わない事だってある。 唯一捨てられなかった願いが、亨に会いたいだった。それは叶った。他には何もいらない、苦しみも恐怖ももうたくさん。 ―― もう…たくさん……。 誰も佐和子の笑顔の裏側に気が着かなかった。佐和子が、優しく笑うから。佐和子にとって、苦しんでまで手に入れたい未来など無かった。暗闇は怖い。死の世界へ導かれるような感覚を植えつける。冷たい死の世界、もうそんな場所へは行きたくない。病気に苦しむのだってもう耐えられない。 ―― もう……いや……。 「幸せなんて手に入らないわ、松宮君。もう手に入らない……」 佐和子にとって亨だけが希望の光だったのかもしれない。唯一望むべき希望、愛しい人。 助けて…そして救って……。 ―― 何から? 闇から…心の闇……。 ―― 闇? 闇とは人生を諦める事。 ―― 不安は? 淋しい心が見せる幻影。 ―― 恐怖は? 死ぬと言う事……いいえ……失うと言う事。 「亨……お願い、助けて!」 蛍の声がどこかで響いた。 +----------------------------------------------------------------+
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