我が心の天使

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 『神に愛された天使』誰がそう呼んだのだろうか。記憶にあるころから、周りが皆そう言った。
 誰よりも美しく、優秀で一点の曇りもない天使というのがその由来。完璧といわれ続けた私は、いつもそうありたいと願っていた。
 天使は、天界の神によって創られる。人型の入れ物に、命の輪を与えられ、死に行く魂を導くために創られる。

 魂を呼び寄せるために、天使の姿は美しい。
 しかし、どんなに美しい姿を持っていたとしても、天使は美しい生き物ではない。人間から命を奪うものには変わりないのだから。
 満ち足りた人生を生き、最期を迎えた魂をこの手に抱いたのなら、喜びを感じるだろう。しかし、人生半ばで突然命を奪われることもある。どんなに生きたかったとしても、生きられえない人がいる。たくさんの涙と、悲しみに満ちた魂も、私はこの腕に抱かなくてはならない。そんなに辛く、悲しいことはない。
 誰もが言う、「人と深く係わってはならない」と。
 人の心を理解すれば、悲しみの涙に心が濡れ、身動きがとれなくなってしまう。
 天使として生きるためには、人の心を見てはならない。
 それが決まりだった。
 与えられた使命だけをやりぬくことが、自分たちの存在理由だと聞かされ、教えられた。
 その教えを、疑ったことなどなかった。

 私も、完璧なまでの天使をずっと生きてきた。
 美しい姿で魂を呼び、優しげな微笑で魂を包む。そして、新たな誕生を願い天界へと導く。
 それが当たり前のこと、それが私。
 けれど、いつもどこかで自分の生まれた意味を考えていた。
 もっと、他に輝ける一瞬があるのではないか。完璧でなくても、心傷ついても、自分の心のままに生きてみたかった。
 そんな淡い夢を心に秘め、当たり前の毎日を過ごすだけだった。

 天使は、もうひとつの仕事がある。
 ごく稀にしかない、奇跡の仕事。
 もう何年も、その仕事をしたという天使に会ったことがない。
 それは、突然やってくる。心の声が聞こえてくる。まるで天からの声のように、耳に、心の響く。
 悲痛な人間の叫び声。強く助けを求める人間の願い。
 その声を聞いた天使は、その人の願いをひとつだけ叶えることができる。

 その声は突然、私の耳に響いてきた。

 彼の名は、カイル・ヴァーシャス。
 まだ歳若い青年で、第一印象は瞳の綺麗ない人だった。
 ただ、生きることに希望を失い、失意と絶望にあふれていた。彼は、悲しみの世界に身を投げ出し、救いを求め叫び続けた。
 その声が、私の元に届いたのだ。
 初めてのことに、戸惑いと不安を感じなかったと言えば嘘になる。
 それでも私は、使命感にかられ、彼の元へ降り立った。

 月の輝く夜だった。
 街の広場は、十字路の中心にある。レンガ造りの石が敷かれ、その真ん中に美しい女神の石膏が水を噴出していた。
 まだ春には少し早い、肌寒い季節。カイルは水の中に身を浸していた。その光景が尋常ではないことを物語っている。
 人に姿を見られてはならない決まりから、頭から白い布をかぶっていた。得体の知れない姿は非現実的で、違和感がある。
 そんな私が目の前に立っても、カイルはまったく見ようともせず、うつろな瞳は水を映しているだけだった。

「カイル・ヴァーシャス」

 呼びかけても、何の反応も返ってこない。

「カイル・ヴァーシャス!」

 彼の耳には、水音すら響かない。冷たい水に入り、自らを殺したいかのように閉ざされた闇の世界へ閉じこもっていた。
 するりと手を伸ばすと、水の隙間から冷え切った腕を引っ張った。
 体は力が入っていなかったのか、簡単に崩れ水から外へ倒れこんだ。やっと私を見上げた瞳には、深い悲しみを映し出していた。

「カイル・ヴァーシャス?」
「……はい」
「私を呼びましたか?」
「あなたは……誰?僕が呼んだのは、神様です」
「私は、天の使い。あなたの願いを叶えてあげます」

 カイルは、何かがはじけたように意識が私に向いた。

「今なんて……?」
「あなたの願いを叶えてあげます」

 うつろだった瞳が見開いた。
 そして、その瞳に光が映る。私は始めて、人間が希望を手に入れた瞬間を見た気がする。

「今の、本当?」
「はい」
「これは、夢?」
「いいえ」

 カイルは立ち上がったかと思うと、私の肩をつかみ、布を覗き込む勢いでにじり寄る。
 激しいまでの勢いと、瞳の真剣さに驚いて一歩後ろに下がった。肩に感じるカイルの温度に、ぞくっと背筋が震える。

「あなたの願いは何ですか?なぜ、私を呼んだのです」

「エレーナを助けて……」

 私は心のどこかで、願いを叶えてあげられるという初めての経験に嬉しさと好奇心を覚えていた。
 しかし、彼の口からこぼれた言葉に、一瞬で冷たい汗が流れるのを感じた。

「助けてとは、もしかして命のことですか?」
「エレーナを連れて行かないで!」
「それは……」

 不安におびえた、表情。

「できない……?」
「そうではありません……私たちは願いを叶えるために、その願いと同じ重さのものを奪わなくてはなりません。それが願いを叶えるための代償です。 命と同じ重さのものは何かわかりますか?」

 カイルは、少しためらいがちにつぶやいた。

「命……?」

 つかんでいた肩から手を離し、力なく空を泳いだままだらりと地を指した。

「その通りです。命の代償は命しかありません。あなたは、エレーナを救うために人から命を奪うことができますか?」

 命の代償は、大きい。
 人の命を動かすことは、他のどんな願いより難しい。それが、命の重み。変えることは許されない、人の運命。人間の命の長さを簡単に変えることはできない、それが天の定めた決まり。
 天使は、死に行く者の魂を導くもの。
 死ぬことの決まった人間を助けることは許されることではない。しかし、人の声が聞こえ、それが願いなら、その決まりも無効になる。誰かの命と、その人の命の長さを入れ替えることならできる。そうすることでしか命は救えない。
 エレーナを救うためには、命がいる。

「僕の命を使って」

 カイルは、何のためらいもなくそう言った。その言葉に動揺したのは、私のほうだった。

「あなたの命?本気で言っているのですか?」
「僕のせいでエレーナは……」

 語らずとも、カイルの記憶が見える。辛い記憶に言葉を飲んだ。

「自分を殺し、彼女が生きることを望むのですか?」
「自分の命なんていらない。エレーナに生きていて欲しい」

 なぜ?
 人間にとって命は一番大切なもの。生きているからこそすべてがある。
 まだ生きていたいという命をたくさん見てきた。
 目を覆いたくなるほど辛い涙もたくさん見てきた。
 人は生きたいのだ。死にたくないのだ。なのになぜ?この人は、人のために命を捨てられるのか?
 私には、人の心がわからない。
 いいえ、カイル・ヴァーシャスの心がわからなかった。

 この時、私の中でずっと保っていた優等生のバランスが崩れ始めた。

「あなたにとってエレーナとはなんですか?」
「命を捨ててでも守りたい人。それではだめですか?」
「命を捨ててでも守りたい人……」
「一番守りたいのに、僕が傷つけた。僕が、この手で壊した……僕が……」

 その場に崩れ落ちるように座り込んだ。髪から滴り落ちる水滴が、カイルの心に突き刺さる。冷たい記憶に触れ、さらに深い闇を作り出す。
 カイルを攻め、追い詰めるものは雨の日の記憶だった。

 激しく打ち続ける雨は、隙間なく大地を埋めた。
 雨音以外は聞こえないほど、強く打ち付ける。
 車を運転するカイルの横に、優しい雰囲気の女性が座っていた。
 視界をさえぎる雨に、急に影が飛び込んできた。
 その影が子供だと認識した瞬間、カイルの瞳は見開いた。そして、同時にハンドルを切った。
 雨音をさえぎる激しいブレーキ音。
 すべる道はカイルからハンドルを奪い、近くの建物に激突した。
 雨音を打ち消すほどの激しさを帯びた大きな音と、衝撃は空も揺らし、白い煙が昇り立つ。
 カイルの意識も、エレーナの意識も奪い去り、エレーナはそのまま一度も目を覚まさない。
 そして、命は確実に終幕へと向かっている。

「なぜ、僕が助かったのか……どうして僕が……」

 カイルは、自分を責める。もっと早く子供に気づいていれば……。もっと落ち着いてハンドルを切っていれば……。もっとあの時、ああしていれば。すべて後悔だった。
 神に願った、自分を殺してと。この命をエレーナにと。 その声が私に届いた。
 神がカイルの願いを聞き入れたのだろう。心の綺麗な哀れな青年の願いを受け入れた。

「お願い、エレーナに僕の命を」

 カイルの瞳が焼きついて離れない。私の中に生まれた疑問は膨らみ、しこりのように残る。口から出た言葉は受け入れるための一言だった。

「分かりました。その願いを叶えてあげましょう」
「エレーナは救われる?」
「あなたの思いが真実であるのならば、あなたの生きる時間の分だけエレーナは生きることができるでしょう」
「真実?」
「心から救いたいと、その思いが本物であれば必ず叶います」
「偽りなど存在しません」
「そう信じています」

 少し、表情から苦しみが消えたように思えた。

「ひとつ聞いてもよろしいですか?」
「はい?」
「彼女は、あなたの命を望むとは思わないのですか?」
「どういうことですか?」
「あなたが彼女に生きてもらいたいと思うように、彼女もあなたに生きてほしいとは思いませんか?」
「…………」
「あなた亡き人生を彼女は生きるのです。それが幸せですか?彼女に生きてほしいと思うことで、自分の罪を償おうとしている。でも、それは苦しみから逃れるためではありませんか?」

 カイルは、しばらく考えた。でも、かすかに微笑を浮かべて、私を見上げた。ゆっくりと立ち上がると、まっすぐと見る。

「そうかもしれない。でも、エレーナに生きて、幸せになってもらいたい。彼女を死なせたくない。ともに生きることができるのが一番の幸せだと思う。でも、それができないのならエレーナの幸せ意外、僕は望まない」
「自分より大切な人なのですか?人間の心は、美しいのですね」
「綺麗な心じゃなくてもいい。僕は、罪を背負っても仕方がない」
「3日後、病室に伺います。すべては、その時に。それとカイル、心が純粋なものだから、私に声が届いたのです」

 そういい残すと、私はその場から姿を消した。まるで風のように、カイルをその場に残して……。

 3日間、ずっとカイルの様子を伺っていた。
 消えるのことのない心の迷いを打ち消すためだ。今まで感じたことのない不安が心を覆う。
 人間の心にシンクロした。
 どこかで感じている、人の心の深さと広さ、そして温かさ。
 人間の心を、私は知りたかった。
 カイルという人物を、もっと知りたかった。
 私たちでは、決して感じることのできない深い感情。それによって動き、決断する人間。ただ、決められた、当たり前の生き方をする天使とは違った生き方。
 カイルを見ていると、何かがわかりそうな気がした。知らなかった世界を見ることができる、そう思った。

「面白いことになっているじゃないか」

 美術館の屋根に座り、地上の様子を伺っていた私は、突然後ろから男に話し掛けられた。
 振り返った目に入ってきたのは、一羽の真っ黒な鳥だった。それは悪魔の化身だとすぐに分かった。
 鳥はすぐさま小さな風を巻き起こし、巨大な男へと姿を変えた。全身真っ黒ないでたちの男。長く真っ黒なコートに身を包み、少し長めの黒い髪とともに風になびいていた。
 背中には爪を持った羽があり、悠然と開いてみせる。

「面白いこと?」
「面白いさ、神に愛された天使と呼ばれるあんたが、仕事をサボり、あの男を観察しているのだから」

 軽口をたたくと隣に腰掛けた。

「観察しているわけじゃ……」
「おい、分かっていると思うが、人間と深く係わるな」
「分かっているわ」
「あんた見ていると、危なっかしい」
「失礼ね。これでも優秀なのよ。まあ、あなたに比べればお子様天使でしょうけど」
「俺を知っているのか?嬉しいね」
「天使で、あなたを知らないものはいないわ。あなたのことでしょう、悪魔に魅入られた悪魔って」

 にやりと、魅惑的な笑を浮かべた。

「冷酷に魂を奪い去る悪魔と言う意味さ」
「優秀な悪魔さん、ひとつ聞いてもいいですか?」
「何だよ」
「人間って、愛する人のために命を捨てられるもの?」
「ああ、そのことね」

 綺麗に整った顔をしかめた。
 悪魔は、妖艶な美しさを持っている。ある意味、天使よりもずっと美しい姿をしている。柔らかさなどいう表現の微塵もない美しさ。黒曜石のように闇を閉じ込めたような、雰囲気を持っている。
 闇にあふれる瞳は、面白そうに私を見た。

「人間なんて、そんなに綺麗なものじゃない。俺は悪魔だ、たくさんの悪党をこの手にかけた。伝わってくる感情はみんな闇色だ」
「でも、カイルは望んだわ」
「あの男が稀にいる綺麗な人間か、偽りを言ったかのどっちかだ」
「偽りなんて言ってないと思うわ。あの瞳に嘘は感じなかった」

 真剣に否定する自分に、はっとなった。
 冷たい視線を向けられ、その意味が伝わってくる。深く係わってはならないという言葉が何度も頭に響き、自分を押し留める。

「本物なら、あの男の愛情がそれほど強いということだろう。まあ、俺には理解できないがな。分かるとしたら……人間の中にはそれくらい意志の強いものがいるってことくらいだ。良いことも悪いことも」
「地界に落ちる人の中に、綺麗な心の人はいないの?」
「いるぞ、たまにはな」
「何で地界に?」
「もちろん罪を犯したからさ。一番多いのは自殺。あとは不運にもって感じか、行き詰まって悪の道にってのが色々いる。本当の悪党がほとんどだけどな」
「人間って複雑なのね」
「あまり考えるな。道を誤るぞ。何をそんなに考えている」

 心に広がる、晴れない雲に自分を見失いかけている。
 係わるなと歯止めをかける自分とは裏腹に、人の心の中を垣間見たいという自分がいる。
 カイルのまっすぐな瞳が頭から離れない。言葉が忘れられない。微笑で語れる人生すべてが、不思議でならない。

「少し、うらやましいなって」
「何が?」
「よく分からないけど、人間の愛情の形かな」
「おい!何度も言うが、深入りしすぎだ。そんな表情で人間を語るまで入り込みやがって」
「そんな表情?」
「自覚なしだから危険なんだ。そんな表情は不安におびえる魂を迎えるときだけでいい。天使にとって魂を呼ぶ時の武器だろう」

 まさかと、とっさに顔を両手で覆い隠した。

「私……」
「あの男の声は、無視するべきだったな。命の取替えなんて危険なことだ」
「できる……私には」
「そう、だから厄介なんだ」

 しばらくの沈黙に立ち上がった。

「時間だわ、行くわね」
「最後にもう一度言っておくぞ。ミイラ取りがミイラになるな」
「もちろんよ」
「忘れるな、お前は天使。神の元にいてこそ存在する。その意味を見失うな」
「分かっているわ、これも仕事よ」

 背中の羽根を広げた。細い月が悲しげに浮いている空に飛び立った。

「神を捨てるな……お前は神に愛された天使なのだから」

 私は、ずっと自分の存在の意味を考えていた。
 神の元に一人の天使として使える、 当たり前の生き方。それを受け入れられないわけではない。ただ、時々思う、何にも捕らえられず自分のためにこの翼で空を飛びたいと。
 そして、自分にしかできない、自分だけが望む大切なものがあるのではないかと思わずにはいられない。

 カイルが羨ましかったのだろうか?命を捨ててでも守りたい人がいるという強い想いが……。

 それとも、もっと別の何かか?

 エレーナの病室を覗ける木に降り立ち、中の様子を伺った。
 個室のベッドにはエレーナが横たわり、その傍らに祈るようなカイルの姿があった。悲しげな瞳は、静かに時を待ちわびている。カイルが小さくつぶやく。

「エレーナ、愛している……愛しているよ」

 消えるような声は、私にもはっきりと聞こえてきた。

 動けなかった。そこは2人だけの神域のようで、入り込めない壁を感じる。それがなぜか切なかった。カイルの頬を伝う涙。苦しみが私にまで移りこむ、痛みを感じた私は、震え上がった。

 天使は、感情などいらない。微笑みさえあれば涙もいらない。微笑むのも魂を呼び寄せるための武器にすぎない。
感情ではない、心など必要ない、深く係わらないのも心を動かさないため。
 しかし、心がゆれるのを感じた。自分がこれから行うことがこの神域を壊そうとしている。命を奪うということはそういうことなのだと実感する。
 愛なんて知らない。その思いの大切さも分からない、必要ないものだったから。
 愛情なんて見ないようにしていた。
 深く人間を知ることが自分を追い詰め、抜け出せなくなることが怖かった。カイルとの出会いで、触れてはならない心の奥を、私は見てしまった。
 そして、気づいた。
 カイルが羨ましかったのではない。カイルに愛されるエレーナが羨ましかったということに。
 神に愛された天使と呼ばれていたが、神の愛など感じたことはない。美しさと、優秀さと言う入れ物と中身をもらっただけ。
 カイルの愛は違う。心で、ぬくもりで、命すべてを注いで愛しぬく。思いの強さを感じ、その愛に包まれるエレーナが羨ましかった。
 現実を感じた時、立ち止まった自分を引き戻そうと何度も言い聞かせた。自分は天使、神の元に存在する。神のために存在する天の使いなのだと……。
 そして、自分の立場とこれからすることを思い返した。

 悪魔の声が聞こえてきた。人に深く係わってはならない。

「その通りね、本当に道を誤らせるところだわ」

 大きく息を吐くと、病室に入り込んだ。音もなく、ただ風だけを引き連れてカイルの後ろに立った。
 きっと気配なんて感じない。それでもカイルは何かを感じ取って振り返った。相変わらず、白いいでたちの私をそこに見つける。

「やはり、僕の見た夢ではなかった」

 そう言って立ち上がった。

「カイル・ヴァーシャス。あなたの心は変わりませんか?」

 落ち着き払った私がそこにいる。いつもの自分でいようと必死だった。

「もちろん、変わりません」
「分かりました」

 頭から布をするりと落とした。今まで見えなかった姿が浮かび上がる。金色の髪が肩から零れ落ち、窓から注ぎ繰る月の光に微かに光った。
 いただきに光る天使の証は、鈍い光を放つ。首で止めてある紐を解くとローブのように体を覆い隠していた布が肩から落ち、床に広がった。背中の羽根は開かれることなく収まっている。
 カイルの前をゆっくりと通り過ぎ、エレーナの横に立つと、右手を振りかざした。その瞬間、人工呼吸器が消え去った。取り付けられた機械の規則正しい音が聞こえる。

 カイルは言葉を失ったまま呆然と立ち尽くしていた。流れるような動きを目で追うと静かに息を飲む。
 ちらりとカイルを見ると微笑を浮かべた。
 感情を見せないいつもの武器だったと思う。しかし、狂いだした自分の感情をそう簡単に元には戻せないことを知っていた。
 病室の外で足音がして、カイルが振り返る。私の手はやわらかく空気を泳ぐ。指をパチンと鳴らすとあるはずのない鍵がかかる音がする。
 病室は、隔離された空間へと姿を変えた。

「あなたにとっての幸せって何ですか?」
「え?」

 突然の問いかけに驚いた声をあげた。

「昔は、エレーナとともに生きることでした。彼女となら温かい家庭を築けたと思う。男のささやかな夢です」
「今は?」
「今は……エレーナが幸せになること。僕を忘れて、新しい人生を生きてくれたらいいと思う」
「それが幸せ?」
「そう、僕の望み」
「愛する人が他の誰かと生きることが幸せですか?」
「それは、もちろん忘れ去られることは寂しいし、辛い。それでも幸せをつかんでくれることのほうが僕は嬉しい」
「愛する人の幸せが、一番の幸せということですか」
「それが僕の幸せ。叶えてくれて、ありがとう」
「私が叶えるのは、あなたの命を彼女に与えること。幸せになるかどうかは、彼女がどう生きていくかです」
「でも、あなたのおかげで生きられるのです。ありがとうは、あなたへの言葉です」
「……これも、私の仕事です。お礼はいりません」

 カイルは切なげな笑みを浮かべ、瞳はエレーナに向けられていた。そして、遠くを見るような視線のまま小さくつぶやく。

「綺麗さっぱり忘れ去られたら辛いと思う。記憶の片隅にでも僕のことを覚えていてくれたらいいなと、ささやかな願いは持っています」

 切ない横顔だった。

「あなたが愛した人です。きっと忘れたりしないと思います」
「だったら嬉しいな……」
「時間だわ。瞳を閉じてください。一瞬です。痛みも恐怖もありません」

 カイルは、悲しく微笑んだ。そしてゆっくりと瞳を閉じた。
 右手は、カイルに向けられ、心臓の高さで止めた。右手にすべてを集中させて、瞳を閉じる。指先が震えているのが分かった。冷たさばかり感じ、氷のようだった。
 病室は、冷気が漂っている。カイルの魂を呼ぶだけでいい。この手にその魂を抱くだけでいい……。

 ただそれだけで……。

 私の手は急に力なく空を切った。流れていた冷たい空気が一瞬で消え去り、それに驚いて瞳を開けたのはカイルだった。

「え?」

 体が震えていた。

「どうしたんです、早く僕の命を」

 訴える声が聞こえてきたが、私の耳で止まったまま中に入り込んでこなかった。

「ごめんなさい、私にはできない」
「なっ、なんで!エレーナを助けてくれるのでしょう!」

 慌てるカイルが目に映る。私に飛びつき、懇願する。

「エレーナを助けて、あなたにしかできない、あなたにしかできないのです」

 規則正しくなっていた機会音が、急に音を変えた。激しく危険そしらせる音は、カイルを刺激する。悲しい音色のように私を攻め立てる。

「エレーナを助けて!!」

 悲痛な叫びは、私を苦しめる。カイルは激しく叫んだ後、私を見て動きを止めた。
 震える体、カイルを見る瞳から涙がこぼれた。
 カイルの姿がゆがんで見える。止めようと思っても止まらない。いくつもの涙の粒が頬を伝って、床に消えていった。

「私には、あなたを殺すことができない」
「そんなこと言わないで……エレーナを救えるのはあなたしかいない」
「私にはカイルを殺せない」
「天使様!!」

 カイルの瞳を覗き込んだまま微笑を浮かべた。笑みとともに涙が零れ落ちた。カイルの手から逃れると、床に広がっていた布を拾い上げた。そして、振り上げ、エレーナの上にかけた。白い布は波打ち、エレーナを覆い隠す。

「カイルが言ったとおりです。愛する人の幸せが、一番の幸せ。私もそう思います。カイル、私にはあなたを殺せない……だから……」
「…………?」
「私の命をあなたにあげる」
「え?」
「エレーナと二人で幸せになりなさい、カイル」

 カイルが何かを言おうとしたが、その前にもう一度微笑むと、頭上に浮かぶ光の輪に触れた。目があけていられないほどの光が病室にあふれ、すべてが光に飲み込まれた。
 この光は天使の命。入れ物の体に命を与える神が私たちにくれたもの。この光を失えば、私たちはただの入れ物に姿を変える。動くこともなければ、微笑むこともない、人間の命を導くこともない。

 無に還る。

 後には何も残らない。
 神に愛された天使とたたえられた記憶も、私という天使がいた記憶もどこにも残らず消え去る。まるで、はじめからいなかったかのように跡形もなく消え去る。
 神の元にいてこそ私たちは存在する。神の元にいることを拒めば存在する意味はない。
 たくさんいる天の使いの一人が消えたところで、人間が死んで悲しまれ惜しまれるような一瞬など訪れない。天使とは、悲しく寂しい生き物たちだとこんなとき強く感じる。
 それでもよかった、誰の記憶にさえ残らなくとも、私は確かに生きた。神に愛された人生ではなく、一人の人間を救い、彼の幸せを守るためにこの命を使った。
 それはとてもばかげた行動かもしれない。すべての天使が、すべての悪魔が嘲り笑う行動でも私は後悔はしない。この一瞬に幸せを感じたから。

 だってそうでしょう?

 私は、カイルを愛した。ほんの一瞬の淡い恋、暖かい日差しのような綺麗な心を持った一人の青年のぬくもりを感じ、やさしさを覚え、武器ではない笑みを知った。
 そして、誰かのために生きるということ、守りたい命を見つけてしまった。
 カイルが幸せを掴めば、私が生きた意味がこの地上に刻まれる。
 それでいい、それがいい。幸せを感じるから。

 ひとつ願うとすれば、心の片隅に私という天使がいたこと覚えていて欲しい。
 人間に淡い恋心を抱き、命を捨てた馬鹿な天使という記憶でもいい、長い人生を生きたささやかな一瞬に過去を振り返ったとき、私の存在を思い出し微笑んでくれれば私は喜びを感じるだろう。
 生きてよかったと、この美しい人間の世界に触れることができて幸せだったと思うから。
 カイルの心の声を聞いてしまったあのときから、こうなることは決まっていた。カイルは天使の心を飲み込んでしまうほど、天使より美しい心を持っていた。だから惹かれ、そして愛し、すべてをかけた。自分の命よりも大切な人になった。

 カイル、必ず幸せになって……幸せに生きて。

 

 

 

 ある晴れた日の午後。街の美術館はひっそりとたたずんでいた。静かな館内はまばらな人が時折歩き去る。
一人の青年が一枚の絵を見つめたまま、動きを止めていた。
 その瞳はとても悲しく、そして優しい。過去を見ているかのように懐かしさを帯びていた。
 耳に残る靴音を響かせて、一人の男がその青年に近づいた。真っ黒なコートをなびかせて颯爽と歩く。青年を見ると、足をとめた。

「天使が好きなのですか」

 低く響く声だった。青年は聞こえた声に振り返った。優しく笑みを浮かべると、まっすぐ男を見つめた。

「はい、僕の心にはいつも一人の天使がいるんです。この絵の天使のように、美しく、優しく、儚く……そして、強い意志を持った天使です」
「……何か思い出でも?」
「……僕に幸せをくれたのです。あなたも、天使がお好きですか?」
「俺?そうだな……昔、愛した女が天使だったんだ」

 青年は、優しく微笑んだ。

「きっと、素敵な人だったのでしょうね」
「いや、馬鹿な女だったよ」

 青年は遠くから呼ばれ、今行くと返事をした。

「ゆっくり天使を楽しんでいってください。お先に失礼します」

 立ち去る青年を振り返った男は、呼び止めた。

「なあ、あんた。今も幸せか?」
「ええ、幸せです」
「そうか」

 変わらない笑みを浮かべて、立ち去っていった。
 その後姿を男は、じっと見詰めた。そして、鋭い真っ黒な瞳が微かな笑みを浮かべた。どこか儚げで、優しかった。妖艶な顔立ちからは驚くほどぬくもりを感じる。

「お前の願いは叶ったぞ。記憶にも残ってる。お前は、永遠にあいつの心の中に生き続けるだろうな……我が心の天使……俺の中にも永遠に」

 足音はなかった。
 風のように男は姿を消した。
 誰もいないフロアーに、天使の神々しい絵だけが静かに微笑んでいた。



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