蛍石〜秘密の恋〜

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 ―― 誰かを好きになった事があっただろうか?

 ひとりの少女が窓辺に寄りかかり、月を見ながら自分の過去を思い返していた。
 そして首を振る。
 溜息まじりに「あるわけがない」と呟く。
 その瞳には悲しい色が見え隠れし、映りこむ月が微かにぼやけていた。
 彼女の名は月蓮。
 小国の王の末娘。十六歳になるかならないかの幼い姫君。

 月蓮は、手に持っていた真っ青な石を月に照らし、その光を虚ろに見つめ悲しそうに微笑んだ。思い出したのはここに来る前の自分の姿、家族にすら嫌われ続けた惨めな日々。

 ―― いらない子供だった。

 たったひとつ役に立ったのがここへ来た事。そうであると願いたかった。

 自国を守る為に大きな国とのつながりを欲した父王は、月蓮を花嫁としてここに売り渡すことで自らの安泰を考えた。末の娘で、身分の低い母……娘とすら認められない月蓮。まるで人質のようにこの国に来た。
 大切な娘はやれないがこの娘なら、王は簡単に決断したという。月蓮はそれを断わる事など出来はしない。すべてを受け入れるように、言われるままに従った。
 それでも月蓮は構わなかった。少しでも自分の存在が国の為になるのなら。
 月蓮ほど健気な人間はいない。
 愛されなかった事を悲しむ事もなく、それが自分の人生とすべてを受け入れる。少しでも役に立てる事に喜びすら感じた。自分の世界すべてを棄てる。たった十六歳でその覚悟をし、夢も希望もない後宮という名の監獄へと足を踏み入れたのだった。

 そこでの暮らしは、生まれた国での暮らしとたいした変わりはない。

 後宮とはいっても、彼女はただの宮使い。王の花嫁として迎えられたわけではない。ただここにいればいい。

 ―― いずれはこの部屋に王が通う事もあるのだろうか?

 これにも月蓮は首を振った。
 そんな日はきっとこない。こないで欲しいと願いながらそう思う。王を怖いとは思わなかった。父よりもはるかに年上の厳格さをおびた男。流石に強国の王という空気が少女にも分かった。
 怖いというよりは近づきたくない。
 針のように突き刺すような空気が漂っていた。出来ればここにこのまま、ひっそりと身をおいていたい。
 王に愛される事など望まない。
 ただ静かに暮せればそれでいい。その願いが一番難しいと知りながらも、思わずにはいられなかった。
 国から追い出された事よりも、王に愛されないよりも、少女は自由を失うのが一番辛かった。

 ―― この身は自由にならなくとも、この心は自由でありたい。

 それは、月蓮の切なる思いだった。

 後宮の女達は、しきりに彼女を目の敵にする。他の高貴な姫たちに苛められる事は、なれすぎていて何を言われても気にはとめない。どんな仕打ちを受けても痛みも感じない。寂しくとも、悲しくとも、辛くとも、いつも思い描く自由でいる姿。それさえあれば、それは些細な事だった。

 ―― どこにいても孤独の人生からは抜け出せはしない。

 そう、思っていた……。

 寂しい心を隠し、平気な振りをする。自由を思い描き、ただじっと耐える。自分は平気、これくらいなんともない、これが国の為なのだと思うことによって救われようとしていた。
 それで救われていた。幸せという言葉を知らなかったから。暖かい人の心を知らなかったから。自分に向けられる優しさ、信頼、愛情を感じた事がなかったから。

 ―― あの人に会うまでは……。

 後宮にはたくさんの女達が出入りしている。中で一番、皆の目を引くのは眩いほどの美しい髪結師。
 名を光琳と言った。
 誰もが彼女に髪を結ってもらう事を願う。彼女の腕前が人より優れている事もあったが、それよりも彼女は口が聞けないからだった。ものを話さない者の前は雑談がしやすい。後宮から出ることのできない姫たちは、噂話が大好きだ。月蓮の悪口もしきりに交わされているだろう。幼く、大人しい彼女はその苛めの矛先を一心に集めた。
 光琳はただそれを聞いている。静かな微笑を浮かべながら。何も聞いていないという風に。

 皆は知らない、光琳の秘密を。

 しかし、月蓮は偶然に知ってしまった。

 彼女は……いいえ、彼の名は琳子。

 この国が敵対する強国の第三王子。
 彼は、スパイとしてここにいる。女のかっこをしてまでも、ここを探る為に。
 話すことも出来る。その声は実に、低くも優しい男の声。見かけとは裏腹に彼は確かに男だった。知られれば命はない、だからその秘密を知ってしまった月蓮もまたその秘密の共有者だった。
 知った時に向けられたのは光る剣。少女の首にその冷たさを残した。
 しかし、琳子は月蓮を殺す事は出来なかった。
 哀れにに感じたのか、同情したのか……それとも別のなにかか?
 その日から、彼は人目を盗んで月蓮のもとを訪れるようになった。
 彼は、優しい。
 その優しさが偽物だとしても、月蓮にはその優しさが救いだった。優しくされた記憶のない少女には、その一言が心を救い、その腕が体を暖める。囁く声、語る言葉、触れる指から伝わるその温度。寂しい少女の心を埋め尽くす、彼のすべて。

 これは、秘密の恋。
 言える筈がない。言う事は許されない。
 それでもこの想いだけを少女は、抱いて離さない。抱く想いに誰の許しを請うというのか。ただ想っているだけ、誰の迷惑にもならない。

 ―― これが恋と言うのだろうか?

 月蓮は、考える。
 恋などしたことがない、どんな気持ちかなんてわからない。形に出来ない想いを言葉にするのは難しい。そう感じて、戸惑うように俯いた。

 それでもこれが恋だと信じたかった。
 辛くてもいい、報われる事など望まない。秘密は秘密のままでいい。
 彼の優しさが、心を救う。彼の声が、心を優しくする。彼の温もりが、すべてを守る。
 彼の姿をひたすら思い描く、それだけで月蓮は幸せな気持ちになれる。
 それは救い、この捕らわれの身の生活の唯一の光。

 暖かい、心が暖かい。

 少女は、石を持ったまま胸元に手を重ねた。狂おしいほど胸の奥が痛む。語る事の出来ないその想いに。再び月にかざした石はその想いに反応するかのように光輝いて見えた。
 美しく、悲しげに。

「いつも大事にしているんだね、その石」

「琳子……」

 はっと、驚き顔を上げた月蓮の瞳に映ったのは月ではなく、幻影でもなく、琳子の姿だった。
 窓の外から囁くように語る声。
 陰のようにそこにいる琳子の姿を見つけ月蓮は小さく呟いた。驚きと、嬉しさを顔に表して。窓から中にもぐりこんだ琳子は、そっと少女の頬に触れた。優しく微笑み、たらしたままの髪に触れる。

「この石はお守りなの」

 悲しそうに微笑む月蓮の顔を見て、琳子は熱い眼差しで彼女の瞳を真っ直ぐと見つめた。

「月蓮?」

 時折、今にも消えてしまいそうなほど儚く笑う月蓮を、琳子はその腕の中に抱きしめた。

「私が苦しめているのか?」
「いいえ!琳子は私の救い、この生活は私の運命」
「蛍石か……」

 そこで言葉をとぎった琳子に、月蓮はびくりと背筋を震わせた。琳子の腕の中から逃れ、俯いた。 気付かれてはならない。知られてはならない。

「どうして?」
「え?」
「その小さな石がどうして宝物?」

 月蓮は握り締めていた手を開いて、見つめた。差し込む月の光できらりと光る。

「これだけだから……国から持ってきたものは」
「そうか……綺麗な石だね」

 琳子も月蓮の手のひらにある石を切なげに見つめた。

 月蓮は必死に嘘をついた。
 国から持ってきたものなどひとつもない。
 ひとりの侍女と、国を追われるようにしてついてこさせられた男がひとり。後は何ひとつ国との繋がりはなかった。
 それでも本当のことを言うわけにはいかない。この石の意味は、語る事の出来ないこの想いと同じ。

 ―― 秘密の恋。

 この石は月蓮の心そのもの、想いの結晶なのである。言う事の出来ない、胸に秘めた想いが、ここにある。それを守るように月蓮は優しくその石を抱きしめる。琳子への想いを抱くように。

 秘密の恋……少女が抱いたその想いからすべては始まった。
 動き出す運命は、生まれ来る想いを止める事ができないように、誰にも止められない。真っ青で透明で美しい、透き通るような純粋な色は月蓮の中に潜む想いと同じ。この想いを忘れない。この想いを守り月蓮はこれからも生きてゆく、天の悪戯のような彼女の運命を。辛く悲しいその人生を生きながらも、いつか月のように暖かい光に包まれる時が来ると信じて。

 琳子への想いだけが月蓮を救い、琳子の存在すべてが月蓮を守る。
 言う事の出来ない想い、語る事の出来ないその心。その想いに、心に、涙しても構わない。
 それでも幸せ。
 幸せの意味を知ったから。
 自分の心に自由でいられるから。
 本物の心がそこに存在するのだから。
 取り繕ったわけでも、思い込みでもない、真実の想い。それが琳子への恋心。

 蛍石……秘密の恋……。

 命に変えても月蓮が守りたい、たったひとつの宝物。

 月はいつも優しくそこにいた。月蓮と琳子を優しく包み込むように。二人を守り、暖める。温もりを振り注いで。

 月夜……いつも月の夜に物語は始まった。


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